ヤマネコ目線

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見えて来た人類滅亡へのシナリオ

 近年は特に環境危機が叫ばれ、SDGsなる概念も出て来たが、私としてはそんな事はもはやどうでも良い。人類が遅かれ早かれ滅亡するシナリオが見えて来たからだ。

変われない人類

 人類は往々にして強欲である。より安全な家を、より安定した食料源を、より長く生きられるための医療をと、これまでの人類の発展は果てることのない欲望によって成し遂げられて来た。それは決して止まる事を知らず、何かを成し遂げては更に利便性を求めて突き進んで来た。欲望とはつまり人類発展の原動力であり、人間の本質とは切っても切れない関係にある。

 それはSDGsが叫ばれ出した現在でも変わらない。いかに環境問題が叫ばれようと、いかに地球温暖化による実際の気候変化に直面しようと、我々は実際問題としてその暮らしを大きく変えようとはしていない。EVシフトがどうの持続可能な社会がどうのと言いつつ、結局は今まで築いて来たあらゆる利便性を捨てられないでいる。使用するエネルギーはそのまま、あるいはより多くのエネルギーを浪費する社会をめざしながら、他方では人類の叡智とやらで小手先だけで環境負荷を減らそうともがいている。

 EVシフトが好例だ。今までと同じように移動にかかるエネルギーを使いながら、それにかかるエネルギー源を化石燃料から電気エネルギーへ変えることで本気で環境負荷が減らせると思っている。確かに電気自動車は直接的な温室効果ガスの排出をしないし、発電から送電・充電・走行まで考えても化石燃料よりエネルギー効率が良いかも知れない。しかし全体的に見た時に、人類が移動に使うエネルギーはそこまで変わるだろうか。エネルギー保存の法則を知っていればおおよそ察しはつくだろう。そもそもEV自体、EVを製造するところから廃棄する所まで込みで従来のクルマより環境負荷が低いと言えるのかは怪しいところだ。EVが本格的に普及すれば、その消費電力のために発電所も新造しなければならないだろう。そこにかかる環境負荷はどうなるか。発電方法はどうなるのか。

 結局、人類全体としてSDGsだの何だのと言いながら、エネルギーの消費量はこれまでから変えるつもりがない、むしろ増やす可能性もある。となれば、環境負荷は形を変えるだけで何ら変わらない。再生可能エネルギーとやらも度が過ぎれば早々に破綻するだろう。本気で環境負荷をへらすのであれば、人類が使用するエネルギーの総量を減らす方向へ行かなければならない。その方法としては単純に人口抑制でも良いし、今よりずっと厳しい環境負荷対策でも良い。

人類が抱えるジレンマ

 本気で環境負荷を減らすには、人類が使用するエネルギーの総量を減らさなければならないと先ほど述べた。しかし多くの人は反論するだろう。「そんなこと本当に可能なのか、出来ないだろう」と。そこが問題になる。

 端的に言って、使用するエネルギーを減らす方向へ行けば人類同士の生存競争に打ち勝てなくなる。それが現実問題としてある。人類は全世界単位で連携できるほど賢くはない。せいぜい国家単位でしか統制は取れない。と考えた時、国家単位で使用するエネルギーを減らす方向へ行くのはイコール国家間での生存競争に打ち勝てなく事を意味する。国家としてそれが受け入れられる事はないだろう。そもそも発展途上国からすれば、これまで環境負荷を垂れ流しにして発展して来た先進国が貧しい我々に何を言ってるんだという話であって、もはやそこで人類が協力し、一つの方向へ進める可能性は見えない。

これから先に待つもの

 環境負荷が一向に軽減されず、地球環境がますます不安定化し、それでもなお人類がさらなる発展(という名の環境負荷増大)を目指し続けたとき、その先に待つのは人類の生存環境の崩壊と、武力による残った資源の奪い合い、つまりは第三次世界大戦である。人類はそれによって数を大きく減らさざるを得ないだろうし、それによって人類の絶頂期は終わりを迎える。ありきたりな流れではあるが、いよいよそれが現実味を帯びて来つつある感じがある。宮崎駿ナウシカを描いてる時点でこれが読めていたのだろうか。ナウシカの世界ほど酷い有様にならないよう祈るばかりだ。