ヤマネコ目線

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平和を定義する

 某記事に触発されて、8月という事もあって書いておく。こんな事でも書いておかないと本気で理解していない人間もいるので、一応意義はあると思いたい。最近ネタ切れだしね

戦争の根底

 最初に戦争の根本的な部分に触れると、戦争の根底には人間の欲深さがある。領土が欲しい、資源が欲しい、国家という群れをより発展させたい。それがイデオロギー自衛権なども絡んで多少複雑さを増そうとも、突き詰めていけば人間の欲望という一言に集約される。欲望がある限り、人類は争うことを止めない。止められない。

 では欲望を人類から切り離すことは可能か。それもまた不可能であるし、そんなものは人間とは言えない。「より良い社会を作りたい」、「世界をより良くしたい」、「生活をもっともっと楽にしたい」、そういった意志もまた欲望であり、人類がここまで文明社会、技術を発展させて来た原動力である。欲望を捨て去るということは、人類が種として発展する原動力を失うにも等しい。良し悪しはともかくやろうとしても出来ないのが現状だが、とにかく”良いとこ取り”は出来ないのだ。欲望はまさに諸刃の剣。

 様々な創作で見られる「人類補完計画」というのは、人類を今ある「欲望に囚われた人類の形」から解放してより高次の存在へと昇華させよう、というお話。有名どころで言えばエヴァンゲリオン人類補完計画の本来の目的はそれである。Fate/stay nightに登場する何でも願いを叶えてくれる願望器”聖杯”も、当初の設置目的は人類の進化。現実的にそれが可能になるのは一体いつになるのか分からないし、果たしてそれを人類の総意として”良し”とすべきなのかは分からない。

 それとは逆に人類を退化させれば、我々が定義する「戦争」という大規模な争いは無くなるだろう。しかし野生動物だって縄張り争いくらいはするので、そこまでしても局所的な争いを無くすことまでは出来ない。蟻ンコだって月一だか週一だかで大規模な戦争をやっている。我々が知らないだけで。

 どのみち生物として争いは避けられない。この地球で生命が誕生してから今まで激しい生存競争の中で生き残ってきた生物たち、その末裔の一種が我々なのだから。「世界平和」というお題目は人類には過ぎたものである。そんなものを信じるのは質の悪い宗教と同じ。原罪がどうのと言われた方がまだしっくり来る。

平和とは何か

 ここで勘違いして欲しく無いのだが、私は「戦争をしないための努力」を否定したい訳ではない。戦争など起きないに越したことは無いし、巻き込まれるのはまっぴら御免だ。今この「国のために死ぬ」なんて無理。それを強制する奴がいたら自分が生き残るために◯す。

 それはともかく、では「戦争しないための努力」としては何が正しいのか。ここで問題なのが「どういった平和を願うのか」。平和教育でも何でもとにかく日本人がいう「平和」の概念はふんわりし過ぎている、抽象的過ぎる。ただ何となく「あらそいのないへーわなせかい」と一向に具体的な目標を立てようとしない。

 目標が抽象的過ぎるから、一部のおかしな連中のように妄執に取り憑かれた人間が出て来てしまう。「戦争をしないための努力」として何が正しいのか見失ってしまう。では具体的な「平和」像とは何か。個人的に思うところを書き出してみると以下の通り。

  • 議会制民主主義および資本主義経済が適切に運営・維持されること
  • 国家存続を保障するに足る軍事力を保持すること
  • 法の支配と基本的人権が適切に尊重されること、階級の是正
  • 教育の普及と情報の透明性確保、差別の是正
議会制民主主義、資本主義経済の適切な維持・運営

 まず1つめ。平和とは何も「武力行使するしない」の話だけではない。国家が傾けばそれだけで争いは生まれる。政治不満から内戦に発展し、それに対する権力者の弾圧、暴力の連鎖が生まれる。それを防ぐためにはまず国家の体制、経済が適切に維持される必要がある。あえて「議会制民主主義」と書いたのはそれが体制として一番マシだと思うので。「資本主義経済」も同様。もちろんそこには政治的による格差是正も含まれる。

 民主主義が機能不全に陥り、格差是正どころか格差拡大へと舵を切っているのがこの国だが。その点だけ見ても日本はどんどん不安定な方向へ、平和とは程遠い方向へ進んでいるのではと思う。

 最近では経済安全保障という言葉も出てきたが、経済と安全保障は両輪なのであって言い出すのが何十年も遅い。逆にこれまでそうした概念が頭に無かったのかと。かと思えば経済政策は無く防衛増税などと言い出すあたり、本当に政治家は分かっているのだろうか。

軍事力の保持

 2つめ、「軍事力の保持」は一部の人々は反対しそうだが、ある程度の軍事力を保持しなければ平和は保つことが出来ない。先に述べたように人類からは欲望も、それに基づく争いも切り離すことが出来ないので、そこで争いをどう抑止するか。

 野蛮な話だがいざという時は結局、武力がモノを言う。世の中「話せば分かる」人間ばかりではないし、交渉を100%成功させられる人間はいない。いわゆる自称平和主義者たちはそのあたり謎に自信満々だが、彼らは”話し合い”が決裂した場合の次をどう考えているのか。「誰かを殺すくらいなら殺される方がマシ」という意見も見かけるが、それは国民の総意たり得るだろうか。そんな自分勝手で理想に耽溺した意見は大衆から支持され得ない。

 もちろん武力行使は本当の本当に最終手段だが、それよりも相手と対等に交渉できるだけの、「話し合い」のテーブルにつくための後ろ盾として軍事力は必要だ。平和の維持には「外交による交渉」も重要なのだがそれは安全保障、防衛力と一体である。

 これがなかなか理解しない、できない、しようともしない人間もいるようで困った話だが、「強盗に銃を向けられた丸腰の人間」は強盗と対等に交渉できるだろうか。せいぜい身ぐるみ全部剥がされて命が助かるかどうか。圧倒的に不利な交渉を迫られる。対等に交渉をするためには、最初から互いに銃口を向けた状態から始めなければ意味が無い。力による後ろ盾がなければ交渉、話し合い、その対等さにおいて不利な立場におかれてしまう。ともすればそれが国民に不幸と不満をもたらし、国の不安定化をもたらす。

 実例はあるか。ヒトラーが台頭したのは第一次世界大戦後、巨額の賠償と軍事的に大きな制約を課されたドイツであった。敗戦国として不利な条件を飲まされた結果がどうなったかは周知の通りだ。

 一部の人々が不利な条件・交渉を許容できるとしても、大衆はそうではない。自称平和主義者の言うように武力を捨てたところで、それは結局争いを生む。犠牲を生む。「殺すくらいなら」と大人しく殺されたところで、その先には自分たちを殺した勢力による闘争が広がるだけである。そもそも多くの人間は「大人しく殺される方がマシ」などとは思わない。「武力なき平和」のような綺麗事は、善人ポジショントークで気持ち良くなりたい人間の独りよがりに過ぎない。

 一方で行き過ぎた軍事力を持てば周辺国からは「覇権国家」と見なされ、敵視されることにもなる。今の中国がまさにそれであり、何事もバランスが大事。重要なのは軍事力の”均衡”であって、それを崩すことでは無い。

 現実に目を向けると防衛において日本はアメリカに多くを頼り過ぎている。ただ、それはあながち間違いでも無い。先の大戦から学べることの1つは「いかに優れた武器・兵器を持っていても物量で大国には敵わない」ということ。ナチス・ドイツがその典型で、彼らは優れた武器・兵器を数多く開発していたがソ連、連合軍の物量には敵わなかった。日本の国としての規模を考えれば単独で中国、ロシア、北朝鮮などの脅威などに対抗することは不可能。

 それも、もはや技術立国ですらないわー国ではアメリカ様に頼るしか生き残る道が無い。軍事的、安全保障の面での独立を少しでも維持しようとしてこなかったツケはある。そうしたツケはいつかアメリカの巻き添えとなって戦争に参戦する、という形で払わされるかも知れない。自称平和主義者はアメリカ追従を批判すると同時に軍事力の補強も否定するが、アメリカから少しでも独立した地位を築くためにはそれを裏打ちするだけの軍事力が必要である。

 今からそれを目指そうにもまず経済を建て直さないと無理だと思うが、それすら無理そうなので割と詰んでる感がある。

法の支配と基本的人権の尊重、階級の是正

 若干1つめに被ることろもあるが、三権分立、行政と司法は独立したものなので。法の下の平等は社会を安定させるのに必要不可欠であり、それは平和の維持という観点からも重要。憲法にもとづく基本的人権の尊重は言わずもがな。映画「ジョン・ウィック」で出てきたセリフに「ルールが無ければ我々は獣と同じ」というような言葉があった。ルールはあっても守られなければ無いも同じ。そうなってしまえば権力者は好き勝手なことをする。国家はたちまちサル山のボスとそれが引き連れている群れに等しくなってしまう。国家の不安定化は争いを生む。

 この点、日本はあまり心配していないが個人的には1つだけ懸念がある。自民党が推し進める憲法改正である。憲法改正草案を読む限り到底、改憲など容認できない。特に緊急事態条項は今すぐ危険ではないにせよ、それこそ100年200年、この国が存続する限り永続的に危険な要素となって残るだろう。

manuller416.hatenablog.com

 階級社会に関しても日本は一見無縁なように思えるが、近年登場した「上級国民」という言葉のように、実質的な階級社会的扱いを感じるレベルにもなって来ている。それは法的なものではなく経済格差によるものだが、大物政治家の影響で捜査が打ち切られた/捜査できないといった話も聞くようになった。そのような事はあってはならない。

教育の普及と情報の透明性確保、差別の是正

 民主主義国家における主権者は国民である。その国民の教育水準が低かったり、あるいは情報の透明性が無く政府がやっていることの是非を判断しづらかったりすれば、主権者として適切な判断を下すことが出来ない。そうなれば民主主義は機能不全を起こして国家が不安定化する。

 また、法的にも教育によっても差別は是正、禁止する必要がある。たとえばイスラム教の国家では、宗派による差別が内乱に発展している。いわれのない不当な扱いは不満を蓄積させ、いつかそれが爆発したとき、国の体制を揺るがすだろう。

 この点、日本はどうか。森友学園問題をはじめ様々な問題が追及されるたび、我々が目にするのは通称「のり弁」と呼ばれる黒塗りされた情報開示とは名ばかりの文書。政治における情報の透明性は確保されているだろうか。また、投票率はお世辞にも高いとは言えない状態が続いている。これで民主主義国家の国民として教育が行き届いていると言えるだろうか。

 差別に関しては国を揺るがすほどのスケールの大きな話は今のところ無いように思うが、このまま国内に外国人が増え続ければ将来的にどうなるかは分からない。不法滞在して就労、子どもを作って「帰れというのは差別だ」と騒ぎ立てるのは今、すでに出てきている。

こうして書き出してみると

 日本人は「平和だな」とたまに口にするが、具体的に書き出してみると現状にも課題は山積している。それらから目を反らして「現状維持していれば平和であり続けられる」と思い込むのは勝手だが、現実はそう甘くはない。加速し続ける少子化と着実に進んでいる実質的な移民政策だけでも、将来的に国を不安定化させるには十分だ。現状維持すら維持する努力を怠れば叶わない。

 ここで書いたことが平和の具体像のすべてとは言うまいが、これと同じような解像度で平和とはどういう状態かのイメージを持ち、そこへ向けて国民一人一人が前進していく意思が重要である。それは何も「武力行使をしない」というざっくりした狭い範囲の話だけでは済まされない。

余談:共産主義

 いわゆる自称平和主義者には同じ理想論で相性が良いのか共産主義社会主義的な主張をする者が多いように思う。しかし私は共産主義社会主義なるものが未だに「多様性」の1つとして堂々と認められていることに違和感を覚える。

 共産主義社会主義は人間には過ぎた理想であり、それを目指した国家は歴史的に見ても尽く失敗し数々の虐殺、飢餓、紛争を生んできた。そのような思想がなぜ今だに多様性などと言って認められ得るのか。

 もちろん民主主義かつ資本主義でも戦争はする。失敗もする。ヒトラーが体現したのはある種、民主主義の悪い面での極致だろう。しかし共産主義社会主義とそれに基づいた社会の構築はそれ以上に容易に独裁体制を作り出し、権力の暴走を招き、それによる社会の崩壊と紛争を生む。一体いつになったらそれらが人類の手にあまる理想だと気づくのか。

 そうした思想が人類に幸福をもたらさない、失敗するものだと分かっていても「多様性」として認められるならば、優生思想やナチズムだって認められてしかるべきではないか。それがあってはならない以上、共産主義社会主義もさっさと可能性から排除すべきだ。「反共産主義なんて時代遅れだ」と彼らは言うが、私から言わせれば共産主義社会主義こそ時代遅れも甚だしい。