ヤマネコ目線

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東大寺に行って来た:Part2

 前回の記事の続き。

manuller416.hatenablog.com

 大仏殿内部、入って正面付近。大仏様(盧遮那仏、るしゃなぶつ)、いわゆる「奈良の大仏」。改めて見ると本当に巨大。西暦752年に開眼供養が行われたので、約1,300年前からここに鎮座している事になる。何度か戦火に遭って焼失し、頭は江戸時代、体の大部分は鎌倉時代に補修されている。

 横から縦に。完成当時は全身黄金だったらしい。その金メッキをするためには大量の水銀が使用され、多くの死者が出たという。簡単に言えば、水銀に金を溶かして表面に塗り、火であぶって水銀だけを蒸発させて金メッキとする手法(金アマルガム法)。救いを求めて建造した大仏像、その輝きのために大勢が命を落とすとは何とも皮肉な話。 

 因みに全く関係ないが、日本昔話には「大仏の食い逃げ」という話がある。あろうことか京都の大仏とつるんで食い逃げをしてしまう話。昔話で仏が出てくると何故か大抵ろくな事にならない・・・。

 大仏に向かって左にあるのが虚空蔵菩薩坐像(こくうぞうぼさつぞう)、1752年に了慶、尹慶らによって再建された。虚空(果てしなく大きな空間)に蔵する(おさめる)ように無量(非常に多くの)知恵と福徳を持ち、それらを人々に与えて救いを成すとされる菩薩。

 こちらは完成が比較的新しいためか金泊が残っている。

 虚空蔵菩薩坐像、上部。後光?の造形も素晴らしい。この部分は冠なのか、それとも天上をイメージして遠近感を出すものなのか。

 屋根裏?へと続く傾斜がかなり急な階段。現代では確実に建築基準法に違反しているであろう角度(法の不遡及の原則で違法にならない事は言うまでもないが)。転げ落ちたら確実に◯ねる。

 広目天(こうもくてん)像。仏教における四天王の1柱であり、西方の世界を守護する。大仏像の西方に位置している(正確には斜め後ろなので北西寄りだが)。筆と巻物を持っているが持ち物は時代によって異なるらしい。これもやはり造形が見事。

 梵名はヴィルパークシャで「様々な眼を持つ者」や「特殊な眼を持つ者」の意だが、これが「広くあらゆるものを見通す眼」と解釈され広目天と訳されたと考えられている。

 大仏像の裏側はこんな感じ。後背。下側はおそらく蓮の花弁をイメージしたもの。その上に複数の雲が彫刻されている。

 多聞天(たもんてん)。呼び名としては毘沙門天(びしゃもんてん)の方が広く知られている気がする。広目天と同じく仏教における四天王であり、北方を守護する。広目天とは大仏像に対して対になるように北東に配置されている。

 手に持っているのは宝棒(仏敵を打ちのめすための武器)と宝塔。宝棒はちゃんと殺傷力のありそうな形状をしている(小学生並の感想)。宝塔は仏塔の美称であり大日如来の象徴。仏塔と言えばもとは釈迦の遺骨あるいはそれに代わるものを安置した仏教建築だが、それが転じて仏塔そのものが宗教的な象徴になったのだろう。

 正面から。梵名ヴァイシュラマナで「広く聞く」「よく聞く者」という意味から多聞天と訳されたどしたん?話聞こか?七福神の1柱とするのは日本独自の信仰らしい。確かに言われてみれば居たわ・・・七福神に。みんなラフな格好して和気あいあいとした感じなのに一人だけ完全武装な人が。

 如意輪観音(にょいりんかんのん)坐像。対になる虚空蔵菩薩坐像に先んじて1730年に順慶、賢慶らによって建造された。如意は如意宝珠(チンターマニ)を、輪は法輪(チャクラ)を意味する。

 チンター(思考)マニ(珠)はいわば仏の教えの象徴であり、法輪(チャクラ)は仏教の教えを伝えることの象徴、つまり仏の教えを広く伝えて人々を救う菩薩。調べてみるとこの辺はインドの神話と混ざり合っている部分があって面白い。特にチャクラの起源は古インドの投擲武器チャクラムである。

 余談だが如意輪観音は本来であれば腕が3対(6本)あるらしいが、この像は2本しかない。最初は別の仏像として造られたのか、あるいは後に腕が二本の像が対で配置されることを考慮して本数を抑えたのか。

 盧遮那仏と如意輪観音坐像を並べて。焦点距離24mm(フルサイズ)でこんな感じ。向こう側の虚空蔵菩薩坐像が台座で写らない。

 二月堂手前の階段。傾斜がかなり緩やかで1段1段がかなり低い。ここまででなくて良いので他の寺社仏閣も階段、緩くして欲しい。

 なお、鹿のフンがいたる所に落ちている。足元注意。

 二月堂(国宝)。旧暦の2月にお水取りが行われるので二月堂。旧暦の2月は通常の暦でいえば大体3月くらい。お水取りは正式には修二会(しゅにえ)という行事。行事としての意味を簡単に説明するのは難しい。修行とお祓い、1年の順調と豊穣祈願もろもろひっくるめた欲張りセットとでも言うべきか。

 手水舎。二月堂への階段を上がったところにある。この屋根も唐破風と言って良いのだろうか。

 二月堂南面。本尊は大観音(おおがんのん)と小観音(こがんのん)の2つあり、ともに絶対秘仏とされて一般公開どころか写真すら公開されていない。お水取りにあたる僧侶でも見ることは出来ないらしい。小観音にいたっては扉の無い厨子(ずし、要は箱、ケース)に収められている。中世以前にこの大観音・小観音を模写したとされる図があるので、存在しない訳ではない(と思う)。

 更に変わったことにお水取り14日の期間中、前半7日は大観音が本尊とされ、後半7日は小観音が本尊とされる。本尊が2体存在する理由も、修二会の途中で本尊が交替する理由も不明とされる。

 二月堂、高欄よりの景色。奥に大仏殿の屋根が見える。

 焦点距離105mmで。

 上の写真、縮小なし。

 六角吊り灯籠。多めに吊り下げてあったがどういう意味があるのだろうか。

 登廊。お水取りを行う僧侶、練行衆(れんぎょうしゅう)が行事の期間中、宿泊している参籠宿舎(さんろうしゅくしゃ)から二月堂へ登る時に通る屋根つきの回廊。足で磨かれた石畳に、向こう側の出入り口から指す太陽光が反射して何とも趣深い。そこに立っている人のシルエットが浮かび上がるのもなお良し。

 氷室神社(ひむろじんじゃ)。元が氷神を祀る神社であるためか、お供えものとしてかき氷を奉納できる。決してその場で食べる用ではない。あまり大きな神社ではないので知らないとスルーするかも知れない。

 江戸時代に制度化された雅楽の伝承組織、三方楽所(さんぽうがくそ)の1つ、南都楽所が置かれ、神職も楽人(がくじん、雅楽の演奏者)が務めるようになったとされる神社らしく、写真手前付近は舞台のようになっている。

 この後、帰り道にソフトクリームを食べて帰った。あまり夏の暑い最中に出かけるものではない・・・。

 おまけ。奈良の鹿。奈良公園の鹿は国の天然記念物に指定されている。奈良公園で弁当でも食べるつもりなら、彼らには用心した方がいい。鹿せんべいを買ってすぐあげないのもNG、噛まれたりする。鹿せんべいを売っている人には近づかない賢い奴ら近づくと箒などでシバかれるので

 奈良県は大日本鹿帝國のように思われがちだが、鹿と人間がのほほんと共存しているのはあくまで奈良市付近だけで、それ以外の地域では害獣である。畑の作物や墓に供えられている花を食い荒らしたりする。

 知っている人は多いと思うが、「早起きは三文の得」はこの奈良の鹿由来。昔、鹿の死体を家の前に放置していると三文の罰金を払わなければいけなかったため、早起きしてもし自分の家の前に鹿の死体があれば、そっと隣の家の前へ移動させた。それで罰金を逃れられたので三文の得、という話らしい。「いや自分で埋めろよ」とか言ってはいけない。朝起きてすぐにそんな事をするのは昔の人でも面倒くさいのだ。鹿の死体はさぞたらい回しにされたであろう。なお、三文は今の価値でいう100円ちょっとである。