ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

良心と恋愛

 書き散らし。ヤケクソに近いお気持ち表明程度の駄文。

無価値な自分と向き合う

 私は私自身に価値を感じていない。アトピー性皮膚炎のせいでと言うと言い訳がましいが、本当に下らない人生を送って来た。人間の形はしているしそれらしい振る舞いはしているが、逆に言えばそれだけの空虚な人間で、それでも生きているのは私がこの世界に「まだ生きているだけの価値がある」と考えているからである。

 価値とは普遍的なものではなく、絶対的なものでもなく、人間がそれぞれ勝手に見出す相対的なものである。なので私自身の価値観が絶対ではない。しかしある程度客観的に見たおおよその価値というのはあるものだし、それに照らせば私自身が無価値であるという事はほぼ間違いない。

無価値なものを売りつけるという不道徳

 そんな私にも悲しいかな、人並みの欲求はあるもので、最近は特にカップルで買い物に来ている人を見ると嫉妬心に駆られてしまう。要は彼女が欲しいと思う気持ちが無い訳ではないし、普通に恋愛したいとどこかで思っている、諦め切れない気持ちがどこかにある。

 しかし、そこで私自身の無価値さが顔を出す。異性と交際する、しようとするのはお互いに自分自身を売り込むという事に等しいと思うが、そこで「無価値なものを無価値だと分かっていて相手に売りつけようとすることは不道徳ではないか」と思うのである。そこで私は良心の呵責に苛まれる。欲求に従って動こうとすると、そこで理性が働いて致命的なエラーを起こす。世の中には私と同じような欠陥品の人間もある程度いると思うのだが、そういう人達は一体どうやってこういう問題を解決しているのだろうか。そもそも良心の呵責や欠陥が無い?

幸福追求の権利とは言うけれど

 基本的人権によって、日本国民であれば誰しも幸福追求権が保障されている。しかし、本当に幸福を追求することが認められるのは、認められて良いのは一部の人間だけではないかと最近感じる。もちろん私自身、自分にはそれが認められるべきでないのではと考えているからだが。

 私は人として欠陥しているし、人並みの恋愛や結婚・子育てといった人生のイベントが体験できたとしても、もはやそこで幸福を感じられるかどうかすら分からない。元より自分で自覚するほど欠陥が多い。そんな私がもし幸福を追求するとなれば、それは必ず誰かの幸福とトレードオフのものになるのだろう。それは果たして許されて良いのか。誰かの時間やあらゆるリソースを奪ってまで、実現できるか分からない自分の幸福を追求して良いのだろうか。

 結局、いつまでも欲求と良心の間で動けなくなっている。どうせ実現できぬのなら、どうせ向いていないと思うのなら、人間らしい欲求など完全に捨てされてしまえば良いのだが。