ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

共産党が水着撮影会を潰した件

 共産党埼玉県議会議員団が、水着撮影会の中止を申し入れている。いわく、「性の商品化は許さない」だそうだ。

垣間見える共産党の本質

 こうした所に共産党の本質が垣間見える。結局、彼らは自分たちの理想に即しないものは燃やし尽くしたいのだ。日本で言うところのフェミニズムの流れも取り入れて、性の商品化を防ぐだのと大義を掲げて正義を気取り、自分たちの価値観に合わないものは徹底的に叩いて破壊する。

 確かに、水着撮影会なんてのは如何わしいイベントだとも思う。が、それに参加するしないが男女とも自由である以上、そこまで目くじら立てるべき事なのか。何もAV出演強要問題のように強制された事実が確認できた訳でもなし、そこには需要と供給があるだけだろう。未成年の出演に関しては問題と思うがそこは”調査中”らしい。何の権利があって他者の自由を侵害するのか。そこに理想の実現のためならば人の自由を侵害・制限しても構わないという共産党らしいクソみたいな価値観がにじみ出ている。

 それを是認するべきではない、と私は思う。いかなるイベントであれ、彼らの理想に合わせて自粛や制限を続けていけば、その先に待っているのはディストピアだからだ。あらゆる娯楽が潔癖な理想の下で奪われ、制限され、ただでさえ面白くないこの国の社会がさらに面白みを失っていく。水着撮影会の次はコミケのコスプレに文句をつけて潰しにかかるだろう。その次は?その次の次は?

 一度そうした自由の制限を許せば、それは際限なく広がっていく。もしこれが共産主義に対する弾圧であったのならば、彼らは同様の理論で猛反発しただろう。歴史的にみて数々の虐殺と飢餓を生みながら、主義主張の自由から許されている分際でよくもまあ。私から言わせてもらえば共産主義こそよっぽど害悪だ。

彼らの本質

 何だかんだと理由をつけているがはっきり言ってしまえば、水着撮影会を潰してやろう、性の商品化を許さないと言ってる人たち、いわゆるフェミで本質はミサンドリーなんだろうなと思う。共産主義はあんまり関係ない。思想的にそういう潔癖な感じが合うから入っているだけで、単純に男も、男に媚びる女も嫌いなのだろう。

 彼らが女性の性的表現を過剰なまでに嫌う理由は、性的な面での魅力が彼ら自身には無い/無かったから。異性としての魅力こそが価値とされる中では、相対的にそれが無い人間の価値は下がる。彼らはそれが許せないのである。モテない男が「俺を相手にしない女がバカなだけ」と考えるのと同じで、自分自身が異性として無価値であることを素直に認められない。そこで自己防衛的に「悪いのは私ではなく私の価値を認めない異性」という思考に至り、なおかつ自分自身には無い性的魅力を価値とし、異性からの注目を集める同性を嫌悪するようになる。そのなれの果てがフェミを名乗るミサンドリーである。

 しかし、無価値な事実はどうしようもない。これを書いている私は男として恋愛市場において無価値であると自覚しているが、そこで女性を責めても何も解決しないことも理解している。なぜそれを理解し、自分自身が無価値であると認めることが出来ないのか。そこで一般的に価値を認められているものを叩いた所で社会は、人々の価値観は変わることなど無い。無価値であるものに価値を見出すことも無い。

 むしろ今現在、価値を認められているものに難癖をつけて潰すやり方は反感を買う。無価値であったものはむしろ”排除すべきもの”に変わる。それすら理解できない辺り、哀れにすら思う。価値とは相対的なものであり人によって違う。その中で従来の価値観に合わせて自分を磨けば、特に女性ならばチャンスが残されている可能性は高いのに、一般的な価値観を重視するあまり否定的な思考に陥って誤った方向へ進んでしまっている。

余談:共産主義こそ許されない

 共産主義がいまだに許されていることこそ理解しがたい。いくら思想の自由があれど、許されない思想だってある。特にナチス・ドイツ的な選民思想や優生思想は、思想の自由があるといえど現代社会において許容されないだろう。

 しかし、ソ連などが戦勝国側だったからかなぜか共産主義は許される。レーニンスターリンポルポト共産主義を目指して来た国家は多くの虐殺と飢餓、戦乱を生んで来たにも関わらず。共産主義者は「あれは真の共産主義ではない」などと言い、高過ぎる目標設定とそれによる失敗から目をそらし続けている。それがまかり通っている。歴史的に見て実際に失敗だらけにも関わらず、それらは「本当にやりたかった事とは違う」で逃げおおせられるなら無敵ではないか。

 共産主義の実現を目指した国家の末路を見ればそれが人間の本質に適していない事は明らかであり、いい加減にそれを認めて我々の選択肢の中から排除しなければならない。でなければまた新たな過ちを生むし、現在のように妙な活動家の隠れ蓑にしかならない。社会に何ら好影響を及ぼさない。多様性を重んじる流れがある中では、そのようなものでもある程度は許容されるべきなのかも知れないが。