ヤマネコ目線

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「教育に悪い」は本当に「悪い」のか

 X (旧Twitter)のコミュニティノートにまで意識高い系教育に悪いもの絶対許せないマンが紛れ込んでいるらしい。彼らは「子どもの教育に悪い」とするもの、たとえば暴力的で破壊的なゲームや性的な描写をしきりに目の敵にする訳だが、果たしてそれは正しいのか。

「気づきを与えるのが教育だ」

 これは呪術廻戦のセリフの中でなかなか含蓄あると思ったセリフ。教育とは何も知識を詰め込めるだけ詰め込むことが教育ではない。近年はより自分で考えることを重視した教育が行われているが、子どもが浅い人生経験と価値観で考えられる内容には限界がある。

 裏を返せば子どもと大人の違いは経験の数とも言える。様々な物事を経験することで我々はそれに応じた知見を得て大人になっていくのである。どれだけ自分の頭で物事を考えることが出来るか、咀嚼できるかも重要な訳だが、少なくとも経験することで得られる価値観の変化はある。それこそが「気づき」であり、学校での集団生活や行事を通して経験を、気づきを間接的に与えることが学校教育の意義の1つと言える。

 逆に様々な経験を積むことが出来ない・与えられない人間は、年齢ばかり重ねた子どものような大人になってしまう。恋愛などその最たる例だ。私自身も自覚があるが良い歳して恋愛経験の無い人間はその方面で大人になれない。まず経験のチャンスが与えられなかったので仕方無いが・・・そんなことはどうでもいいとして結局、何が言いたいかと言えば「大人が安易に教育に悪いと定義するものも子どもにとって重要な経験の1つ」だと言うことだ。

暴力的なゲームで得られるもの

 暴力的なゲームの代表格、GrandTheftAutoシリーズ(以下、GTA)なんかでは通りすがりの一般市民を銃で殺害することが出来る。それはもうロケットランチャーだミニガンだと大暴れすることが出来る。ゴア表現もある。確かに大人からすれば本当に破壊的で残酷な描写のあるゲームだ。

 一方で通常のプレイでは暴れれば暴れるほど手配度と呼ばれる指数が上昇し、最初は警察がパトカーで駆けつけて逮捕されることがある。逮捕されれば持っている武器は全部没収+罰金。それはまだマシな方で、手配度が上がれば警察のヘリに追いかけられ、最終的にはこれでもかと言う数の警察特殊部隊が容赦なく銃撃して来るようになる。当然のように射殺される。

 ゲームを通して「法を破ればそれ相応の制裁を社会(=ゲームのシステム)から受ける」ということを子どもは理解する。同時に「バレなきゃセーフ」とも考えるかも知れないが、それは現実世界では難しいと教えるのは親の役目。あるいは自分で気づくべきところ。

 マスメディアはそうした側面を無視し、過去の報道ではGTAシリーズで主人公が一方的に暴力をふるうシーンばかりを流して来た。大人はそうした場面だけ見て「こんなゲームは教育に悪い」と断じて来た。本当にそうだろうか。

 チートと呼ばれるコードを使えば主人公が無敵状態、弾薬無制限になって暴れまわることも出来るのだが、ひとしきり暴れ回った子どもは気づくだろう。いくら人を殺しても、いくら町並みや自動車を破壊しても、ただそこには何も残らない。虚しいだけだと。そこにある気づきは「悪」だろうか。

 GTAではアメリカの町並みやそこにいる多種多様な人々、自然、乗り物などが再現されている。むしろそこでは人殺しや破壊行為よりも楽しいものがあると気づくことが多い筈だ。自動車に乗ったり船を操縦したり、飛行機を飛ばしたり。ちょっと町中を歩くだけでも高級住宅街、ギャングのいる地域、ビーチ、ど田舎の農場があり、そこら辺の橋の下にホームレスのテントらしきものがあったり、路地裏にゴミが捨てられていたり、山の上によく分からん新興宗教の村があったりと目新しいものばかりで面白い。突発的に強盗から人を助けるランダムイベントなんかもある。それを一面だけ見て「教育に悪い」と切り捨てて良いとは思わない。

 下にGTA5の乗り物の一覧を貼っておく。かなり多いし種類も豊富。クルマはカスタムも可能。乗り物に乗ってるだけで楽しく1日潰れてしまう。ゲームと時間の管理は難しい。

w.atwiki.jp

 「じゃあ本当に撃ち合いするだけのゲームはどうなんだよ」という声が聞こえて来そうだが、あれはあれで得られるものがある。たまに「戦争ゲームか」などと冷やかす声があるが、人間同士の対戦で擬似的な戦争をすると戦場で生き延びることの難しさを痛感するもの。

 ゲームの中でさえすぐ殺されると知れば、実際の戦争に対して第一次大戦前に若者が抱いていたような幻想は抱かない筈だ。現代戦がテーマでドローンによってお手軽に殺害されるようなゲームならなおさら。アンガーマネジメントは別で習得する必要があると思うが。

 ちなみに昔、よくテレビで「ゲーム依存で怒り狂ってキーボードを破壊する子ども」として流されていた映像(キーボードクラッシャー)は依頼を受けての演技である。迫真過ぎるだろ・・・。

nlab.itmedia.co.jp

エアガンの話

 話のついでに書くが私は子どもの頃、エアガンが欲しかった。しかしお値段が当時でもとてもじゃないが子どもが買える値段ではなく、10歳未満用も親に禁止されていた。それでも欲しいという欲求は無くならず、大人になってから結構な額を費やした。サバゲーに行ったりはしないくせに(体質の問題もあるが)。

 しばらく経ってようやく気づいた。「こんなもの使い道がほとんど無い」と。サバゲーに行くならばまだしも、6mmのプラスチック玉をそこそこの勢いで飛ばすだけの銃を模した道具など本当に使い道がない。しかもそれなりに重いし場所を取るし捨てるのも面倒くさい。邪魔。的に向かって撃つにしても大抵のご家庭では的までの距離が取れない。バッテリーの管理は面倒だしガスは気温が低くなると撃てなくなるし。

 それを子どもの頃に気づければよかった。気づけなかった結果、欲求は憧れへと変わって大人になってから爆発し、散財してしまった。これが悪くすればかなり長い間続くことになる。経験出来ないことは往々にして憧れに変わってしまうし、大人になってから引きずることになる。

憧れのその先

 憧れるものが良いものであれば別に構わないのだが、上で書いたように後で後悔するようなものに憧れてしまうと後々ろくなことにならない。早々に実現して現実を知ってしまえば良い部類で、憧れが”幻想”という次の段階へ進化してしまうとこれがもう最悪。特に性的な要素はその傾向がある。

 漫画やアニメで描かれるようなキレイで幻想的な恋愛・性的要素よりも、むしろグロテスクで汚らしい性的な要素を含む恋愛の現実を子どもに教えるべきだと思うのだが、それをしないから前者の影響で恋愛にあらぬ幻想を抱き、追い求めてしまう人間が量産されている。現実をありのまま受け入れることが難しくなっている。

 幻想が幻想のままなら良いが、それでも諦めきれずに欲求が良くない形で爆発すると性犯罪者が誕生する。犯罪者になるかどうかは欲求をどのような形で処理するかという本人の判断次第なので、一概に性的な描写が悪いとか漫画アニメ・ゲームが悪いなどというのは物事を単純化し過ぎている。

 幻想は幻想、現実は現実としっかり区別できる人間もいるが、価値観として知るのが先なのは幻想の方が多い。それによって高い理想が形成された後で厳しく汚い現実を知ってしまうと幻滅してしまう。大人が良かれと思ってキレイな布で厳しい現実を覆い隠して来た結果、子どもは現実における恋愛・性的要素の価値に否定的になる。「私が求めてたカタチはこれじゃない」。漫画やアニメが直接的に恋愛離れや少子化に影響しているとは言うまいが、こういう点で多少の影響はあると思う。

 何にせよ恋愛や性的要素の現実的な面を子どもからシャットアウトするのは良い事とは言えないだろう。将来的に結婚してほしく無い、子どもを作ってほしく無いなら別だが。

 何もそうした要素に限らず、勝手な価値観での「正常/清浄な世界」へ向けて邁進しようとする、それに基づいて力づくで他者を変えよう、世の中を変えようとする人間ほど迷惑なものは無い。それに子どもが巻き込まれるのは最悪と言える。

余談:性的コンテンツは性犯罪を助長しないのか

 よく性的な要素のあるゲームや漫画が性犯罪を助長すると欧米から批判される。しかしそんな事はちゃんちゃらおかしいと言うか、物事をまるで分かっていない。厳しい規制のある海外の方が性犯罪が多いことからも明らか。

 むしろ厳し過ぎる規制をすると性癖が歪むし良くない形で噴出する。欲求は抑え込んだからと言って無くなるものではない。それが三大欲求ともなればどこかで発散させなければおかしくなる。

 性的要素のある漫画やゲーム等はその点、我が国においてはうまく欲求発散のためのツールとして機能していると思う。問題があるとすれば、むしろそれで事足り過ぎてしまう、幻想的な内容とお手軽さと安さで現実の相手に欲求が向かなくなる事。

 逆に規制が厳しい海外ではドラゴンやポケモンなどの人外が性的嗜好の対象となっている場合が散見される。本当に画像生成AIのLoRAなんかも作られており、こんなのもそういう目で見るのかと驚くレベル。特にポケモンサーナイトやマスカーニャあたり。あ、私はそういう趣味無いです。

 一部で有名なドラゴンカーセックスはもともとそういう嗜好の人が描いていて表現規制に対抗する意図は無いらしいが、そもそもドラゴンを性的な対象として見るとは・・・?某界隈の自称フェミニストは(ネタかしらんが)女性を性的消費の対象としたくないから自分自身や山(mountainの山)で自慰するらしい。むしろそっちの方が精神的というか価値観の面で心配になる。

 人間を歪ませる要素は何もそれだけでは無いのだが、だからこそ単純に「教育に悪そうなもの」をシャットアウトしてもあまり意味は無い。別の方面で歪む可能性を高めるだけ。そもそも親が100%子どもが何に触れるかを管理することなど不可能。人としての成長に必要なのは「取り上げること」ではなく「与えること」では無いだろうか。程度やタイミングは難しいが。