ヤマネコ目線

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劣等者の優生思想

 X(旧Twitter)で優生思想に関するツイートが盛り上がっていた。その問題点について正しく理解できていない人間が散見されるのは残念である。

Xでの優生思想の文脈

 まず大前提としてXにおける優生思想肯定の文脈から触れなければならない。彼らは「優れた自分たちの繁栄には劣った人間の存在が邪魔だから優生思想賛成」ではなく、どちらかと言えば「自分は劣って無価値な人間なので自分と同じような人間は子孫を残すべきではない」、という文脈で優生思想を肯定している。私自身も自分を劣っていると認識しているため、そうした主張に行き着く者の気持ちは分からなくもない。

 しかし「自分が他者と比べて劣っており無価値な人間である」ということを自覚するのは構わないが、そこから生じた自己否定を他人にまで拡張することは心理学で言う”転移性攻撃”では無いだろうか。転移性攻撃とは自分の苦しみや怒り、憎しみを他人に向けることで一時的な開放感を求めるもので、体罰を与えられた子供が物を破壊したり他人に対して暴力的になったりすることが例として挙げられる。

 Xでの件に当てはめれば、優生保護法を復活させるべきという主張によって他者(=自分と同様に劣っているとされる人々)を攻撃*1し、それによって一時的な開放感を得ている。

 「自分は劣った人間だ」という自己否定から来るストレスは処理がしづらく無力感や絶望感、心理的な不安定さにつながる。そこで発生する行き場の無い鬱憤が蓄積し、他者を攻撃してストレスを発散しようとした結果、「無敵の人」や優生思想肯定の人間が生まれるのだろう。それを自覚して何とかコントロールする必要があるが、それは誰しも出来る事ではない。自覚すらしていない場合がほとんどではないか。

 そうした文脈での優生思想は自暴自棄に社会全体を巻き込もうとする攻撃であり、「地獄行きの仲間が欲しいだけ」で、社会をより良くしようというのはそれを多少なりとも肯定するための口実でしか無い。まったくもって迷惑な話である。そうした人間に必要なのは生き方、価値観を見直すことだ。

優生思想の問題点

 優生思想の根底、「優生学」は望まれた遺伝子だけを後世に残そうという思想。人類が人類の品種改良を試みる構想と言える。ナチスを想起する人が多いようだが、最初にそれを提起したのはイギリスの学者、フランシス・ゴルトンである。ナチス・ドイツに限らずアメリカや日本その他の国でもこれに基づいた政策が行われた。

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 特に日本における優生保護法は廃止されたのが1996年と比較的最近のことであり、そう遠い昔の話でもない。優生思想は一見すれば合理的なように思える思想ではあるが、様々な問題を孕んでおり、廃れたのには理由がある。

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 一番の問題は「劣っている」とみなされる遺伝的特徴の範囲が拡大すること。どこからどこまでが劣っていて、どこまでが優れているかを決めるのは人間である。その判断基準は揺らぐ上に「劣っている」と判断される範囲は拡大さえする。障害者の排除に始まり、そこからエスカレートして弱者への差別、排除につながって行く。犠牲者は加速度的に増えるだろう。

 実際、日本における優生思想は弱者差別の側面が強い。欧米で言う本来の優生思想の範囲を逸脱し、エイブリズム(健常者優先主義)に近いとされる。日本人は政治、社会に対するストレスを弱者に転移し続けることで発散しているのではないかと思うことがある。それでは社会は良くならない。

 そうした広範囲を被差別階級とする社会では当然ながら格差が拡大し、行き場の無いストレスを抱える人間は増える。不平等さへの憤り、対立、緊張が起こり、社会全体が不安定化するリスクに晒される。優生思想を肯定している人間は自分さえ良ければ良いと思っているが、そうではない人間も世の中にはいるということを理解していない。社会をより良くと思っているのか知らないがその実は混乱へと陥れようとしている。「地獄への道は善意で舗装されている」というのは至言。

 合理主義的思想には限界があり、特に感情的な側面にふれる問題ではあまり役に立たない。共産主義が好例だが人間の考える合理性など限界がある。優生思想で言えば「優れた遺伝的特徴」というのはその時点の価値観にもとづいたものでしか無く、時代や環境が変われば何が優れているかという基準も変わる。住んでいる社会、国という限定的な範囲の中において何が優れている、何が劣っているなどという狭い視野では失敗する。

 人間の性格や知能などは後天的な影響が大きく、人間は多少の影響はあるにせよ遺伝子だけで全てが決まる訳でもない。人間の優劣を遺伝的な要素だけに単純化したアプローチは科学的に見ても三流であろう。遺伝的多様性から生まれるものもあるし、疾病に対する種の生存性も上がる。

 高名な物理学者スティーヴン・ホーキング博士は学生の頃にALSを発症し、「車椅子の物理学者」として知られていた。優生思想の賛同者は彼のような人も「劣っている」と切り捨てるのだろうか。

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 また、優生思想に基づいた制度は人間の本質に合わないのではないか。人は自己決定を重要視する傾向にあり、たとえ同じ結論でも「自分で納得して導き出した」のと「他人に押し付けられた」のでは受け止め方が違う。自己否定ゆえに自ら導き出した「子孫を残さない」という選択と、国家が個人に対して強制する「子孫を残させない」は違う。そこで判断を強制されれば余計なストレスが発生し、対立が生まれ、社会が不安定化する可能性がある。

 憲法第13条に幸福追及の権利が明記されていることも忘れてはならない。

すべて国民は、個人として尊重される。 生命、自由及び幸福追求に対する国民の権 利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要 とする。

 自己への認識はともかく結婚する/しない、子供を作る/作らないは個人の自由であり、尊重されるべき選択であり、他人の決定に口出しする権利は誰にも無い。優生保護法を復活させるべきと言う人間たちはこの辺りを弁えていない。「子供を作ることが自分にとっての幸せである」と思うのなら誰しもその権利が保障されるべき、その選択を尊重されるべきだ。

 人間はこの話題に限らず押し付けられたものは嫌いになる。宗教二世の問題にせよ勉強にせよ何にせよ、強制されると人は反発する。自分で自覚している欠点であっても他人に言われるとムッとする一因もそれである。自分で自分を貶めるのは問題なくとも他人から「劣っている」と評される、価値基準を押し付けられるのは嫌なのだ。

 優生思想肯定の人間の中には「自分は優れた人間だから」と思っているのもいるようだが極端な話、日本社会の中だとかそんな話ではなく「白人以外は劣った人種なので全員死ね」と言われたら納得できるのだろうか。私は出来ないしするべきでも無いと思う。安直な優生思想の肯定は悪である。

余談:生きる上での価値観

 私自身は自分が「普通の人」ルートの中で生きるには無価値過ぎることを理解し自覚している。そこから生じる自己否定もストレスもある。実際そのストレスがいかんともし難いことも身をもって理解している。しかしそれを他者や社会全体に転移しない/したくないと感じるのは、同時に他者の価値観を尊重したいとも思っているからだ。私と同様の劣った人間でも私と同じ価値観を持っているとは限らない。ひょっとしたら結婚や子育てを望むかも知れない。私はその選択を尊重する、というか口出しする権利が無い。

 また、人間社会にとけ込んで享受できるものは享受しながら実質的に人として生きること捨て、一歩退いた視点から人間社会を見つめることで何とか自己否定から来るストレスを受け流そうとしている。人間社会に生きようとするから「普通の人」たり得ないことにストレスを感じるのであって、そう生きようとすることを試みること自体を辞めてしまえば何という事は無い。そこに未練が無いと言えば嘘になるが、出来ないものは仕方がない。

 SNSで病んでいる連中、生きている意味だの生きる価値だの下らん。「生きたいから生きる」で十分だ。

 

*1:そんな奴らは子孫を残す権利が無いと罵っている