ヤマネコ目線

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欠陥人間

 言峰綺礼というキャラクターがいる。Fate/stay nightという作品の登場人物で、聖職者の家に生まれながら「人の不幸にこそ幸福を感じる」という外道。しかし人としての良識はあり、聖職者の家に生まれたこともあって自身が本当に望むもの(=幸せ=他人の不幸)と、人として、神父としてあるべき姿との板挟みになって苦しんで来た悪役。第4次聖杯戦争ではその辺が悪い意味で吹っ切れてしまうのだが。

 そんな外道神父に、私は親近感を感じてしまう。「人の不幸こそ我が幸福」というほど腐ってはいないが、Fate/stay night Heaven'sFeel第3章での独白には思うものがある。

「お前達が幸福と呼ぶものでは、私に喜びを与えなかった」

「幸福とは苦しみであり、絶望こそが歓びだった。その在り方は、生き物として悪しきものだと理解していた」

「ひどい欠陥だ。外道であっても良識が備わっていたのだ」

幸福とは何か

 私自身、昔から幸福という感覚があまり理解できない。幼少期や小学校、中学校ではいじめられる立場だったのと、それに必死で抗って来たからか、いつも私の中にうずまく感情は負の感情ばかりだった。純粋に面白い、楽しいと思うことはあるし、笑うことだってあるのだが、それでも先生には「笑わない子かと思った」と言われたこともある。私の中では「幸福を感じる受容体が壊れている」感じがする。

 その点で、前述した言峰綺礼に親近感を感じるのだろう。他人が当たり前のように感じている感覚が理解できない。しかし良識はあるし、一般的にはどんな事が幸福なのか、幸せだと「感じるべき」事なのかも理解できる。生物として求めるべきものも理解しているし、そういう欲求は当然ある。

 しかし私自身、幸福を感じたことは実感としてほとんど無い。そしてこれからも感じられるか分からない。私自身が一般的な幸福に値するかと言われればそうでもないし、それを客観的に理解している。生物として何が正しい道かは理解しているが、それが私にとって正しい道かと問われればそれは違う。ひどい欠陥だ。人間として大事な部分が壊れているくせに、良識は未だ備わっているのだ。

生きるとは

 私は私自身に絶望している。しかしそれでも生きる事は止められない。それだけはハッキリしている。自分自身に絶望しても、世界に絶望したわけではないし、生きてて良かったと思う事はある。マヌノレネコという素晴らしい生き物に出会えたし、Fateの映画はこれまで見たどんなハリウッド映画よりも素晴らしかった。まだまだ世界は生きるに値する。まだまだ魅力に満ちている。

 親や親戚は私に「幸せになって欲しい」という。しかし彼らがいう幸せは私にとっての幸せであるとは限らない。私は何も感じられないかも知れない。

 幸いにして幸せ、幸福の形は多様化して来ている。私にとっての幸福の形が、他のそれと違ってもそれはそれで良い筈だ。だからこれまでも、これからも私は私なりの幸せの形を模索しながら生きる。むしろそういった生き方しか出来ない、という方が正しいのだろうが。

神には祈らない

 私と言峰綺礼の最大の違いは信仰だろうか。彼は曲がりなりにも神父として生き、経典の聖言による攻撃も出来るのだから、その信仰は本物だったともされる。

 しかし彼が救われる事はない。ある意味リアルだ。奇しくも言峰綺礼を演じる中田譲治氏が過去に演じたアーカードの言葉が思い浮かぶ。

「神は、助けを乞う者を助けたりしない。神は、慈悲を乞う者を救ったりしない。それは祈りではなく神に陳情しているだけだ。」

 結局、祈りなどというものは「何も出来ない人間が、何かを成した気になりたいがための無益な行動」でしかない。そこには何の意味もない。あったとしてもそれは「意味があると思いたいだけ」である。

 私の母は、寺の生まれで信仰心が強い。結婚してから精神を病み、妙な宗教にハマって私も巻き込まれて来た。その中でいろいろなものを見たから言えるが、この世界にそんな「人間にとって都合の良い神などというもの」は存在しない。そんな幻想を信じるくらいなら、そんな影にすがるくらいなら、私は自分自身に絶望していた方が心地が良い。これまでも、そしてこれからも絶望の縁を歩いて生きて行く。

 

そうだ、マヌノレネコに会いに行こう。