ヤマネコ目線

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自己責任論の行き着く先

 Z世代の老人憎悪が想像を超えている、という話を見かけた。それがZ世代の総意ではないと思うものの、彼らの考え方を理解する上で参考にはなりそうなので共有する。

 私見と考察を交えながら書くが私の意見ではないことも書いているのでその点は留意して欲しい。紹介するXの投稿に不快な表現が含まれますがそのまま貼っておく。不快な意見ほど考えてみる価値はある。

 「反サロ」というのは「反・老人サロン医療福祉」の略らしい。この言葉をつかう人間が現在の医療・福祉についてどのような見方をしているのかがうっすら分かる。はっきり言ってしまえば「老人に対してサロンのように過度な医療や福祉が提供され、そのために大きな負担を強いられているのが気に食わない」あたりか。

 少し前、成田悠輔が「高齢者は集団自決すべき」と発言して大きな波紋を生んだ。私は正直、どうしてそのような発言が出来るのか。成田悠輔がどうして持ち上げられるのか理解できなかったが、彼らが「老人を介護する必要はない」と考えているのであれば説明はつく。Z世代にとって老人はその素性に関わらず現状として社会のお荷物としか映っていないのだ。

 それでも自分自身の祖父母に向かってそんなこと言えるのかと思うが。私は無理。他人でも無理。あまりに想像力が無さすぎる。

 個人的に特に理解の一助となると思ったのはこの内容。確かに子どもの声を騒音としてクレームを入れる、公園ではボール遊びも花火も禁止、遊具も撤去される。「保育園の子どもの声がうるさいから静かに遊ばせろ」なんて話もあって、幼い頃から彼らにとって老人はのびのび育つことを邪魔する存在なのだ。

 何もそれだけに限ったことではないが、Z世代やさらに下の世代は高齢者に自由な子ども時代を邪魔され、教育面では日本の社会保障の歪みを教えられている。そこに高齢者を敬う理由など存在しない。何なら邪魔に映る要素が多いかも知れない。

 特に選挙においては年齢層別人口の違いから、絶対的に若者の意見は反映されづらい。おかしな活動家も高齢者が多い。高校生くらいになればそれくらいは余程のバカでも無い限り理解している。サヨク活動家は子どもを侮っているが実のところ小中学生からも馬鹿にされている。子どもは思ったより色々考えて世の中を見ている。

 私はゆとり世代だが、私の世代でも人口の逆ピラミッド、社会保障の現状は学校で習った。子ども心に「これって無理じゃね・・・」と思ったのをよく覚えている。何をするにしても合理性が求められる中でお年寄りを敬うべき理由が「ただ年齢を重ねているから」では弱い。

 Z世代ではないが私だってお年寄り=無条件に敬うべき相手とは思わない。この国を発展させてきたのが今の老人なら衰退させているのも今の老人。

 晩婚化が進んでヤングケアラーという言葉も登場した昨今、若くして親を介護しなければならない人間もいるだろう。20代で親の介護となれば人生の黄金期を老人に潰されたと感じる人間がいても不思議ではない。

 そうして育った世代にとって高齢者は昔の人間ほど「無条件で敬うべき対象」とは言えず、政治を変えられないことも相まってむしろ排除するべき存在に映ってもおかしくは無い。

 これが更に悪くすると優生思想にまで繋がっていく。「高齢者よりも若い世代が優先されるべき」という思想が「社会に貢献出来ない者は切り捨てて良い」になっていく。それは一見して合理的であり、なおかつ彼らが高齢者を排斥するためにとても都合の良い大義名分だからだ。

 日本人が大好きな自己責任論と、SNS等でやたらに他人と比較して自己あるいは他人の価値を量ろうとする文化がそれを更に補強する。社会全体の中でどういう人間が弱者か、自分は弱者かそうでないか。

 弱者が弱者であるのは全てその人間が悪く、いかに悪い扱いを受けようとも全ては自己責任。弱者はどれだけ蔑んでも良いし何なら生きる価値もない。生きる価値を認める必要もない。

 こうなってくると「社会に貢献できない者」は切って捨てるべき存在であり、そうした人間を救済する方策やそこに至らないための法整備は考える必要もない、と考え始める。彼らにとっては弱者を救済することは金と労力の無駄であり、自己責任論で片付けられるものなのだ。

 では、このような考えをする当事者たちは弱者ではないのか。あるいは弱者であるにも関わらず自覚が無いのか。否、他者に手を差し伸べる余裕が無いからこそ自己責任論を振りかざすのだろう。

 自分自身が弱者であり、自分で自分を助けるので精一杯なのでたとえ全体のためであっても社会保障のためにお金を払いたくない。ましてやそれがどこの誰とも分からない老人の医療費になるなら一層払いたくない。と考えている。「自己責任なんだからあなたは私を救わなくて良い。だから私もあなたを救わない」

 より現実に即して言い換えれば「自己責任なんだから老人は若い世代に頼らないで自分の蓄えで生きられる範囲でのみ生きよ。私たちも老後に備えて貯蓄したいんだから重い税や社会保険料で蓄えの邪魔をするな。世話をするとしても両親が限度」あたりか。

 優生思想の話に戻ればそれを支持している若者は自分たちが「切り捨てられる側」ではないと思っている。なぜなら彼らは老人では無いから。弱者の自覚はあるが今は自分たちより切り捨てるべき相手がいるから。何なら「老人さえいなければ私たちは弱者ではなくなるのに」と思っている。それで本当に自分が老人となった時、切り捨てられることを肯定出来るかは見ものだが、それもまた自己責任。そういう意見を支持した自分が悪い。

 このように老人に対する憎しみが弱者全体に波及し、優生思想の台頭を許してしまう流れは出来ている。これは危惧するべき状況であり、社会保障全体の改革は遅かれ早かれ必要になるだろう。現役世代の負担を軽減しなければ今より更に酷いことになる。

 こうなったのは何も若い世代が愚かな訳ではなく、上の世代が氷河期世代以下に社会の歪みを転嫁し続けたからだろう。本来であればもっと早期に社会保障改革を行い、破綻が見えているような制度を是正するべきであった。政治においても体制が硬直し過ぎた。今さら過去を変えることは不可能なので、今からでも取り組まなければならない。

子ども2人目は「現実的に無理」…子育て世帯にのしかかる経済負担、かつてない勢いで進む少子化(毎日新聞) - Yahoo!ニュース

 コロナ禍への対応もZ世代から高齢者への不満を加速させた一因なのかも知れない。確かに修学旅行をはじめあらゆる行事が中止される中で、豪華客船がどうののニュースもあったしな・・・。

「お前もいつかは老人」問題

 「そうは言ってもお前もいつかは世話をされる側だ」というのは当然の返しな訳だが、「Z世代は馬鹿でその考えに至らない」という訳ではない。見かけた意見で特にそういう見方もあるのか、と思ったのは

 自分達は例外とか考えてるわけじゃなくて、その年齢まで生きたいと思わない、生きれないと思ってる。今自分が生きるのに辛すぎるから、将来社会に出てもっと生活厳しくなるとか想像もできないし、これ以上辛くなるならもう今の楽しい時期で安楽死してぇって子マジで多いよ、友人とその会話してるくらいだよ。今がこの状態なら私たちが大人になった時って社会保障どころか金まだ払わされてるんじゃね笑、もう無理じゃん。マジで長く生きる意味なんてないじゃんってみんな思ってる。

 このコメントを書いた人は「私たちが大人になった時って」と書いているのでどこまで理解しているのか知らないが、今の社会に強烈な不満を抱えていることは分かる。

 意見全体としては正直子どもっぽい。社会保障のありがたさを理解していないし、本当に老人になるまでに自死を選べるほど度胸があるのか疑わしい。しかしながら高齢者集団自決を支持するような人々は、本当にそこまで長生きしたいと思っていないのかも知れない。長生きすることが絶対的に良いこと、という価値観を彼らは持ち合わせていないのだ。

 子どもっぽいと書いたが、今の社会は大人を大人として育てられるような社会になっているだろうか。責任ある大人は育っているか。私は自分自身も含めてそうは思わない。年齢だけ重ねて経済力はいつまでも中途半端。大人になり切れる経済力がない。社会人として得られるものが自分にとっての大人像に追いついていない。

 だからいつまでも大人になり切れない大人=子どものまま。結婚や子育てには興味が湧かないし自分のことで精一杯、何でも節約節約、コスパとタムパ、管理職になんか就きたくない、下手すれば働きたくもない。

 それを全て自己責任で片付けても良いのだが、その結果として起きているのは予想を上回るペースでの少子化少子化の原因を見誤り続け、間違った少子化対策のために現役世代への負担を増やし続けて、大人になり切れない大人を増やせば増やすほど日本人は絶滅に向かって行くだろう。

 政治を変えられないのは若い世代にとって自己責任ではない。

社会保障の意義

 誰しもが一歩踏み外せば弱者に陥る可能性のあるこの世界、誰も好き好んで弱者になる訳ではない。それでも、弱者であろうとも何とかそれなりに生きて行くことが出来たら、多少なりとも社会に貢献できたら、生きたいと思う限り生きられるのであればそれが我々の社会における幸福である

 これを実現する社会保障・福祉は人類社会における幸福追求の1つの成果だと思うのだが、自己責任論はこれを否定するものではないだろうか。

 自己責任論の行き着く果ては誰も他者を助けない社会「弱者は勝手にその辺で野垂れ死ね」、「病気になっても自費で治せないならそのまま大人しく死ね」、それで良いのか。それは先進国らしい社会だろうか。今の日本と比較してより幸福で進んだ社会だろうか。少なくとも私はそうは思わない。それを良しとするような政治も思想も許すべきではない。

 ただし、自己責任論を全て否定したい訳ではないのは留意して欲しい。物事には限度というものがある。社会的にどこまでを自己責任論とするか、どこから救済するかは既にある程度の結論が出ており、それが今の社会保障の枠組みになっている。そこに議論の余地もある。

 「自己責任論の方が自然の摂理に即している」という意見も見かけるが、人間は社会的な動物であって協力しあうのも自然の摂理。もっと原始的なことを言うとしても、それを言い出せば人間の社会、経済というもの自体が自然の摂理から逸脱している。その中で育って今さら自然の摂理がどうのと言われても中途半端にしか思わない。

 そんなに自然の摂理に合わせるべきと言うのであれば近代的なものを一切合切捨てて牧歌的な、中世のような暮らしに戻るべきである。スマホSNSも無し、陽が昇れば畑仕事や家事をして家畜の世話をし、草刈りをして糸をより、機織りやらなにやらして陽が暮れれば床につく。その方が生物としては健全だろうがZ世代には出来ないだろう。田舎者の私でも無理だ。

 そんな世界であっても人々は助け合うのが普通。自己責任論の極みのような社会観はその根底からし現代社会の下地があることを理解していない。自然の理に即していることと、人間がそうしたいと思うかどうか、そう出来るかは全く別。

 今の社会情勢は国民の自己責任。変えられなければ終わり。