ヤマネコ目線

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ご飯粒、残すか残さないか

 Xで育ちの良さについて話題だったので私見を書き散らしておく。世の中には食事の際、「ご飯粒を1つ1つかき集めるのは貧乏臭い」と感じる人間がいるらしい。そういう人達にとっては魚を綺麗に食べるとか、ご飯粒を残さないことが「余裕が無い」、浅ましいと映るらしい。

 育ちの良さについて論じること自体、微妙な気がするがそれはそれとして。

本当の余裕が感じられない

 言い分は分かったが、逆に食べ物を残すことで「私は余裕がある」と誰にともなく誇示するような姿勢こそ浅ましいと私は感じる。残さず食べようが食べまいが他人に損害を与える訳でもなし、そこで「ご飯粒をかき集める」ことが貧乏くさい、みっともないと主張するのは過度に他人の目を恐れていることの裏返しである。「私は貧乏だと思われたく無いんだ」という臆病さがそこに表れている。それはある種の成金的な発想であり、本当に余裕のある人間がそんな事を気にするとは思えない。

日本的な美徳と矛盾する

 日本には「もったいない」という言葉がある。モノの価値を十分に生かしきれていない状態を惜しむ意味があり、無駄の多い人間社会を見直す上でも世界的に注目されている感覚と言えよう。フードロスはその典型で、食べられるものを捨ててしまう、無駄にしてしまうという状況は恥ずかしい、反省すべき事である。

 「育ちが良い」ということの定義は人それぞれだが、日本においてそれを言う場合に日本的な美徳と照らして食べ物を残すのが良しとされるべきか、残さないのが良しとされるべきか。明らかではないか。「育ちが良い」の意味を単に「金持ちの家庭で育った」と解釈しているならそれはそれで残念である。

 近年は「金を払ったから何をどうしようと勝手」だの、「外食でいただきますやごちそうさまを言うのは恥ずかしい」だの、貧すれば鈍するを地で行っているのか道徳観、良心に基づいたあらゆる部分が崩壊しつつあって嘆かわしい。衣食足りて礼節を知るとも言うし、格差が拡大して余裕の無い人間が増えれば増えるほど嫌なことはどんどん増えて行くのだろうな、と考えると先が思いやられる。

 右翼チックなことを書いてしまったが、こういう事を言いながら日本人の生活を破壊し続けてきた自民党は大嫌いなのでその辺、勘違いなきよう。手ずから日本を壊しておいてその壊れた様を見て嘆く老人政治家、サイコパスか何いかか。安倍政権では道徳教育とやらが強化されたが、道徳教育を強化しなければならないような世の中にしたのは彼らだ。

元米農家としての意見

 私の実家は米を作っていた。数年前に辞めたが1町ちょいの規模でも大変だったことは覚えている。手伝うのは苦痛だったがそれはそれとして、収穫する時には1粒でも誰かの口に入るよう、無駄が無いようにと思って作業していた。育ちの良さうんぬんを言うのであればそうした生産者の意思も汲んで欲しい。米はどこかから無限大に湧いて出てくるものでは無い。

 「育ちが良い」と言って差し支えない人間であればあらゆる事に感謝を忘れず、米粒1つ、肉片1つでも自分に食事として差し出されたものなら残さず自分の糧とするのではないか*1。下らない見栄のために食卓に並んだ命とそれを調理した人、輸送した人、生産した人etc.の労力を無駄にすることは「育ちが良い」とは言えないのではないか。少なくとも私の解釈はそうだ。

 日本は一次産業が軽視され過ぎている。飽食の時代に食べ物のありがたみが実感として薄くなるのは仕方がない事ではあるが、それが如何に深刻かの自覚が足りなければ自覚する機会も足りない。

「育ちが良い」の定義

 これは単純に「裕福な家庭で育ったとこ」とはイコールではなくて、どちらかと言えば「人間としての教育が行き渡った中で育って来た」、という感覚が近いような気がする。現代社会においてそれが出来るのは≒裕福な家庭なので、同義と言っても良いような気がするが厳密には違う。人間性は金に比例する訳ではない。

 しかしまあ、他人の「育ちが良いか悪いか」なんて事を品評すること自体どうなのか。見方として面白いとは思うがあまり良い感じはしない。ご飯粒をあえて残すような奴に感じる嫌悪感とはまた別の感情がある。

*1:もちろんアレルギーなどで食べられない場合は除く