ヤマネコ目線

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独身税は少子化対策にならない

 たまに「独身税を創設すれば少子化対策になる」、という意見を見かけるが分かっていないなと思う。もし結婚する人が増えても子どもを作るかどうかは別問題であるし、偽装結婚すれば有利になる。となれば偽装結婚を斡旋する業者が出てくる可能性もあるし、そこに反社会的な組織が噛んでくるおそれすらある。

制度で人を動かす限界

 そんな非現実的な話はともかく、その発想の根底にはゲーム理論的な「どう人を動かすか」があるのだろう。制度設計によって人の選択を実質的に制限し、それによって事態の解決を図ろうというのである。独身税というのは非現実的にしても、実際そのような発想の少子化対策が打ち出されている現実がある。子供を産めば減税しますよ、助成金を上げますよ、それで本当に解決になるだろうか。

 私は最近、少子化対策において「どう人を動かすか」ではなく「どんな人間を育てるか」が重要だと考えている。そしてこれは子育てに関わる制度設計だけでなく、社会全体の在り方が関わって来る。

 早い話いまの日本社会では少子化対策など不可能であり、これまで効果を上げて来なかった少子化対策の延長では全く意味を成さない。そしてこれに政策策定に関わる者はもちろん日本国民が気づかなければならない。

どのような人間を育てるか

 少子化を止めるためには恋愛、結婚、子育てに伴うコストとリスクを許容できる人間を育てる必要がある。少子化において最も問題なのが、社会がそうした人間作りを許さない/出来ない状態になっていること。

 多くの人々が結婚・子育てにかかるコストを賄うことが出来る・それが見込まれるような社会、多少のリスクをカバー出来るだけの経済力を持つ人間がそれなりにいる社会、失敗してもリカバリを許す/支援してくれるような社会であれば、まだ改善の余地はあるのだろう。日本はその逆を行っている。

 もはやここまで来ると広範過ぎて何から論じれば良いか分からない。1つ私が思ったのは、座って2時間の映画を見ることすら苦痛で耐えられないという人間が結婚や子育てを出来るのか、という事。

 「それとこれとは別だろう」と思う人もいるかも知れないが、それは上の世代の考え方。不景気の中で損得勘定が極度に重要視され損か得か、リスクがあるか無いかが価値観の支柱として育った世代にとっては結婚・子育てもそれらの指標で計るものであり、人間的な営みがどうのといった感情的な話を差し挟む余地は無い*1

 「昔はお金が無くても結婚も子育てもした」と言う世代とはこの辺りが決定的に違う。価値観醸成の環境がまったく違うゆえに、そうした単純な物言いでは若い世代は納得しない。今は今であって昔とは違う。

 なぜそう言い切れるか。私自身がそうした価値観を持つ世代の端くれだから。流石に映画館で映画を見るくらいは出来るが、リスクやコストに対して厳しくならざるを得ないことは身をもって知っている。行動が「人間的かどうか」などと考えられるのはある程度の余裕がある層、比較的恵まれた人間であって、そうではない人間は自己の利益を最大化するので精一杯。

 助成金育児支援制度の充実が少子化を止められない理由は単純で、単純な損得勘定からして圧倒的に”損”である見込みが高く、リスクも高く、何より価値観を変えるには至らないからである。既に固まった価値観を変えることは極めて困難であるし、単純な「こうすれば多少お得ですよ」というような制度は所詮は損得勘定へのアプローチであって、「人間的な営みは単純な損得勘定では計れない」という価値観を変えうるものでは無い。

あれ、これ詰んでね・・・?

 ここまで書いておいて何だが少子化対策、詰んでいる感は否めない。賃上げの機運が高まっているとはいえ、庶民の暮らしはまだまだ良くなった/良くなっているとは言い難い。何をするにも節約節約、贅沢は敵、コストを支払うからには必ずそれに見合っただけのものが得られなければならない、子供も含めて誰もがそう考えるような社会では、コストとリスクに対して厳しい価値観を持った人間しか育たない。育ち得ない。

 これは今の18歳以上に対して言えるだけでなく、まさに今この瞬間生まれたような世代についても言える。庶民に厳しい社会はまだまだ続くだろう。そこでこれまで以上に厳しい価値観の親と、コストとリスクを許さない社会に育てられた人間が果たして将来、結婚や子育てをするだろうか。もはや助成金だ給付金だ税制優遇だとかそういう次元の話ではまったく無い。

では、どうするべきか

 老人の価値観から出てくる下らない場当たり的な少子化対策ではもはや何の効果も上げられない。根本的な問題は歪んだ社会、不景気であり、それを今の有権者が是正する方向へ持っていくべきだろう。働けど働けど苦しい社会、転売ヤーや売春が大流行するような社会ではなく、真面目に働くことが一番得をするような社会、転売や売春をしなくても済むような社会にしなくてはならない。まずそうした部分から変えなければ少子化は解決に向かわない。

 そのためにはまず政治を変える必要がある。いつまでも「消去法で自民党」「自民党しかマシなのが無い」ではなく、国民が強い野党を育てる、老人政治を切り捨てることが重要だ。当然、参政権は国民にあるので自らが政治家になっても良いし、それ以外で可能な政治活動をしても良い。選挙だけが参政権の行使ではない。

 裏金うん千万円と作ってお咎め無しや罰金100万円程度で済む世の中を見てどう思うか。おかしいと思わないのか。「誰がやっても同じ」か。そうやって諦めて政治を変えようとしない事こそ非人間的ではないか。「政治に興味無い」と公言して憚らない若者と何が違う。

 今、政治から変えなければ今よりもっと酷い事になる。まあ、それが宿命ならそれまでのことなのだが。国民が愚かだから滅ぶまでの話。そもそもこの国が未来永劫存在し得る訳では無いというのは明らかな訳で、どの世代で滅亡が決定するのであれ、日本あるいは日本人という民族が滅ぼうとそれは「いつか来る結末」でしか無い。

余談: SNSと自己評価

 SNSを見ることで自分と他人を比較してしまい、病んでしまう人間が増えている。これも先述した厳しい価値観の裏返しのように思う。自分の親は他人の親と比べて良い親か。自分は他人と比べて優れた点があるか。自分の子供はどの程度の出来か。本来、コストパフォーマンスなどという指標とは無縁であるべきと言うかコストパフォーマンスなんか大体悪いに決まっている人間が、SNSで恵まれてますアピールをする他人を見て比較し、相対的に自分やその周囲の人間の価値が低いと感じて病んでいる。SNSで流れて来るキラキラしたものと自分の周囲の現実を比較して落ち込んでいる。

 SNSはこうした面で精神衛生的に良くないと感じるし、そこで生まれた劣等感が優生思想の支持に繋がったりするのではないか。インスタ映えだの何だのと下らない。分不相応のきらびやかな世界に無理をして片足を突っ込もうとするから破滅する。醜悪なマウント合戦に発展する。

 逆に厳しい価値観が攻撃に転じるのが昨今の「弱者男性」や「チー牛」などの中傷で、自分の価値観からして「価値が無い」と判断したものは徹底的に切り捨てても良い、何なら足蹴にして笑いものにしても良い存在なのだ。誰もが弱者とされまいと無理をして足掻いてマウントを取り合って破滅し、「私はお前らとは違う」と見下し合う。何と醜い世界か。人間、少しそういう世界から距離を置くべきかも知れない。

 少子化について以前書いた記事は↓

manuller416.hatenablog.com

 

*1:自然と恋愛や結婚はできる人も多いだろうが子育てとなると別