ヤマネコ目線

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小田急線無差別殺傷に思うコンプレックス

 書き散らし。

 小田急線で無差別殺傷を起こした犯人は、「幸せそうな女性を見ると殺したくなるようになった」との供述をしている。その意見も行動もまったく以て肯定しないが、その背景にあるコンプレックスは何となく理解できる気がする。

 犯人の人物像と私の人物像は明らかに違うものだが、当たり前のように幸せを手にしている人間に対する劣等感、羨望から転じた妬みや憎しみが彼を突き動かしたのだろうことは何となく分かる。そこになぜ「女性だけ」というのが加わったのかは分からないが、「大学サークルで女性に見下された」という供述もあるのでそういったことがトラウマになり、妄執に取り憑かれる中でどんどん女性に対する憎悪が強化されて行ったのだろう。

 私自身、そういう点では犯人に少し同情してしまう。私は私自身が人間として欠陥していると自覚している。どこぞの外道神父ほどでないにせよ、いわゆる「普通の幸せ」とされる人生からは外れた人間、誰かを好きになることも無く、付き合うことも無く、コンプレックスにまみれて相手を探す気力すら残っていない人間、そのくせ心の奥底では人並みの「幸福」を求め、それを当たり前のように手に出来る人間たちを羨んでいる人間。そして自分にはそうした幸福は不似合いであると自覚し、人並みの幸福を手に出来る人間を羨み嫉み、巡り巡って憎らしく思っている人間。おそらくそういった点で、私は犯人に少しだけシンパシーを感じる。もっともあちらの方が年齢がそれなりに上なのだが、むしろあの年齢になるまでいろいろ積もらせたものがあるのだろうと思うと、自分もああならない様に気をつけなければと思うばかりだ。

 人間にとっての幸せとは一体何なのだろうか。愛する人を見つけ、結婚し、子供を育てることだけが幸せなのだろうか。己のコンプレックス、劣等感と向きあった時、よく私はそう自問自答する。手に入らないものの事ばかり考えても仕方ない、それ以外にこの世界には自分に幸福感をもたらしてくれるものがあるはずだと。しかし一方でふとした時、スーパーでカップルで買い物に来ている人間を見た時、手を繋いで動物園を歩いている人間を見た時、生物としてどうしても羨望の目を向けてしまう。いつまでもそういう相手がいない、見つけられない自分に劣等感を感じてしまう。

 どのみちそういった幸福が掴み取れないなら、人としての幸福を掴み取れないなら、いっそ山月記の登場人物のようにトラにでもなってしまった方が良いのではないか。人として生きるのに向いていないのなら、人ならざる者でも何にでもなってしまえば楽ではないのか。殺人鬼にだけはならないようにと思いながら今日を生きる。