ヤマネコ目線

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男の性欲

 Twitterにて「男の性欲を薬で無くすべき」、などと抜かしているフェミがおり、お優しいことにそういう戯言に律儀に反応してあげる聖人の集まりであるTwitterユーザーによって「男の性欲」が一時トレンド入りしていた。何だかんだ言って私としても面白いのでネタにする。

実際、無くせば良いのか

 まず「無くすべきか否か」を議論すべきと思わない。生物としてそう出来ている以上、それも3大欲求の1つを無くすことは難しい。非現実的であり実行性が無い。そういう主張をしている人々は自分自身が正常な人間だと思って疑わないがそこからして違う。議論すべきか否か、命題の是非以前にそこに至っていること自体が間違っている。

 そうした下らない事を言う前に性に関して出来ることはまだまだある筈で、性犯罪に対する罰則を強化しろ、というくらいなら普通に理解は得られるだろう。「2アウトでムスコとお別れ」くらいにすれば良い。

 それにしても、論理的な反論をしようにもここまでバカバカしい命題となるとむしろ反論しづらい。「腹が減るのが嫌なら食べなければ良いじゃない」「自由時間が少なく感じるなら眠らなければ良いじゃない」、くらい乱暴な論理。生物として必要なものを否定するのは結構だが、1人で勝手にやってろとしか言えない。

 一部の人間は「発情のタイミングをコントロールできる」と言うがそこまでしなければいけない程の男性ばかりではないし、そういうレベルなら犯罪者あるいは予備軍なので自主的に薬を飲むというくらいで良い。あるいは犯罪者になった場合に強制的に投与する罰則でも設けるか。「万年発情期」という言葉も時に目にするが、そもそも男女問わず人間は1年中いつでも繁殖可能な生物である。人間の知恵が、科学技術がそうさせて来ただけの話。

 なお、野生動物が子どもを生むのは春先が多い。冬が過ぎた直後くらいから繁殖に移り、子どもが出来るだけ冬を越す準備ができるようなタイミングで生む。今の人間がそこまで気にする必要はない。

フェミニストの本質

 ネット界隈で言うところのフェミニストは本質的にはフェミニストではない。ただの「ミサンドリー」である。ではなぜそうした女性はミサンドリー化したのか。

 その理由は自己防衛における流れだろう。正常な恋愛ができない、相手にされない人間は居る。*1あるいはそれ以外で何らかの劣等感を感じる人間は男女問わずいる。理想が高く、厳しい現実の前であまりに理想と現実の差が大きいがゆえ、現実に対して嫌悪を感じる場合もあるだろう。

 そこで迫られるのは、自分自身が現実において無価値な人間であると認めるか、自分自身の尊厳を何とか自分の中でロジカルに保つ論理を探ることである。前者の場合は自分を責め続けて鬱気味になるし、後者の場合は「悪いのは自分ではなく世の中」といった具合に大体は落ち着く。

 ミサンドリー化する女性は自分自身が恋愛対象、あるいは性的対象として魅力の無い存在である、無価値であることを認められないので、そこで「悪いのは自分の価値を認めない男どもであり女性への性的価値観である」と結論づける。

 なのでミサンドリー化した女性は女性キャラクターのイラストにおける性的特徴を強調した表現に過剰なまでに目くじらを立てるし、自分自身を「無価値なもの」に仕立て上げる性欲とそれに基づいた価値観を目の敵にする。彼女らは俗にフェミニストと呼ばれるが、その根底にあるのは”女性の社会的地位向上”などではなく”世の中の価値観の否定”であり、その点において「フェミニスト」とは違う。目的地が異なるから矛先もやり方もズレる訳で、それを世間にも見透かされているので相手にされることも無い。「性的な要素でマウント取られるのが嫌だから」程度の理由では、世の中は動かない。

 男の場合は大体が「俺を相手にしない世の中の女に見る目が無い」とは言えないので、大人しく自分自身が無価値であると認めて鬱気味になり自殺して消えていく。男という性に求められる価値観は男性に弱音を吐かせることを許さないし、そうした弱者男性を相手にしてくれる女性は居ない。そこで開き直った場合はミソジニーになる。いずれにせよ、生物として正常な道を歩めなかった末路なのに違いは無い。

「性犯罪の裁判の傍聴が男性で埋まる」という話

 「男の性欲」関係でTwitterで目にした話だが、まあそういう事はあるんだろうなと思いつつも「男というだけでそういう真性ゲスカス共と一緒くたにされたくない」とは思う。「女ってみんなジャニーズ好きなんでしょ?」くらい乱暴な括り方。そこで主張するのが「性犯罪被害者と異なる性別の傍聴制限」ではなく「男の性欲を無くせ」なあたり、いかに”性欲憎し”でアタマが一杯かわかりやすい。

余談:男が「勘違い」しやすい訳

 端的に言えば、男が女性に親切にするかどうかには「その女性に好意を抱けるかどうか」という判断基準がある。なので男は女性に親切にされると、その女性が「自分に好意があるから」親切にしてくれたのだと”男の価値基準”から勘違いしがち、という話。

 「男の性欲」を無くせという話に関して「性欲無くしたら女性に対して親切心がなくなる」という反論をする者がおり、それはそれで違うだろうと思ってはいるが、おそらくそこには言葉による齟齬がある。

 女性からしての「親切」と男性からしての「親切」は違う。女性の場合の親切は=誰に対してもほぼ平等なものなのだろうが、男性からしての「親切」は社会的に必要な範囲での(女性のそれと共通した)親切もあれど、親切にする=特別扱いする、贔屓にするという認識がある。と思う。

 特に男性が年齢の近い女性に親切にするか否かを決める際、そこに道義的に強い要素が無い限りは「相手が自分にとって魅力的であるか否か」という要素が大きい。そういう判断基準を持った男性ばかりではないが、おおよそはそういう感じがあると思われる。それを「下心がある」と言われればそうだろうし、逆に好きな相手でもないのに親切にすると「下心があるのでは」と見なされるのが面倒臭い、という側面もある。

 

「幸福追求の権利」は憲法で保障されていると言うが、実際は誰にでもある訳では無い。

*1:一応、書いておくが私自身もそうである