就職氷河期世代に関するXでの投稿が燃えていた。この投稿の何が問題かについて考察しておく。
就職が大変そうとわかっていたら、どうして大学生のうちに英検1級とか簿記とか、勉強して取っておかなかったのかしら?優秀な若い脳細胞なら、他の語学もいけたでしょうに。あるいは筋トレとか。建設業はいつも人手不足。まあ、そういう仕事は嫌なんでしょう。 https://t.co/P1Geko1NZj
— 梅田香子 Yoko Umeda 🇺🇸在米30年こえた(´^◇^)ァスポーツジャーナリスト。 (@yokoumeda) 2025年4月21日
まず始めに
私はゆとり世代なので「就職氷河期世代の苦しみが理解できる」とは言わない。その苦しみを理解しようとは思っているし、我々の世代は彼らほどでは無いにせよ生きづらい点もあるので、社会に対する共通の不満があるとは考えている。氷河期世代が社会(政治)に対して復讐したいと考えているのであればそれにも賛同するし、この先どうなろうと止めはしない。
この記事に関しても「お前も知ったような口をきくな」と言われそうではあるが、それはそれで何も申し開きするつもりは無い。
炎上?した投稿者の何が悪かったか
投稿主の身の上
関連の投稿を見るとこの投稿主は就職氷河期世代ではなくバブル世代である。もうこれが良くない。バブル世代が就職氷河期世代に対して上から目線で説教というのは私でも明確に地雷だと理解できる。
失われた30年と言われ凋落しつづけている日本。その中では基本的に上の世代ほど良い人生を送れている。テクノロジーがどうとかそういった事ではなく、人間の人生としての良し悪しについて、である。不景気の中で育っている世代は大抵、自分が子どもの頃=自分の中で日本が一番豊かだった頃。しかし上の世代は違う。
特にバブル世代は好景気を経験し、今では「普通」ではなくなってしまった「普通の幸せ」を多くの人が手に出来た世代。まだまだ結婚子育てが当たり前であった世代。人によって違いはあれど概ね人生は豊かであっただろう。そんな世代に「お前たちは自助努力が足りないからダメなんだ」などとは私でも言われたくない。それも自分たちが熱に浮かれておざなりにして来た政治を差し置いて、失われた30年を棚に上げてと来れば頭に来るのは当然である。
アメリカから何がどこまで見えるのか
それも件の投稿者は「在米30年以上」と来た。アメリカから日本社会の実情がどれだけ見えると言うのか。私は氷河期世代より下の世代でずっと日本にいるが、それでも彼らが抱えている苦しみや当時の実情を「理解している」とは言い難い。
「理解できていない」ことを自覚せず、自己責任論から現実に即していないアドバイスを上から目線でするある種の冷酷さが、就職氷河期世代を就職氷河期世代たらしめたのではないか。相手を理解して寄り添おうという気がみじんも感じられない。
マイクロな自己責任論
違う時代であれば、「スキル磨きを怠った人間の自己責任」というのが一理ある時もあるだろう。しかしそれは個人個人の、マイクロな視点に過ぎない。マクロな視点、社会全体を俯瞰したときに事実として就職率が70%を切る、TOEIC 800点台でも中小企業に就職できない、コンビニバイトすら厳しいといった状況では個人の努力にも限界がある。
このようなマイクロな自己責任論が見逃しているのは、「1人や2人がどうにかなったところで意味がない」という視点である。スキルのある1人や2人が就職できたとしても、その他大勢が安定した職につけず、結婚や子育てを考えられる人が大きく減ってしまえば社会全体は傾く。一部の人間だけが良くても社会は良くならない。格差は拡大し、国民の中に分断が生まれる。これは現在も拡大している一方に見える。
旧帝大のエリートすら就職に困る状況で、一体誰がそれより下の人間が就職できないことを責められようか。
それに、そうした社会情勢では例えスキルを磨きに磨いて運良く就職できたとしても、それが磨かれたスキルにふさわしい職業とは限らない。建設業という話も出ているが当時は建設業も採用を絞っていたとされるのでそんなに甘い話ではない。中小企業がエリートを採用した結果、その職務が高度化してそれまで高卒人材で出来ていた部分が高卒では代替出来なくなった、といった弊害?もある。
同世代の敵
こうした視点は就職氷河期世代の中でも欠けている人がいる。たまたま運良く、あるいは実力で就職して同世代より恵まれた人生を送れた人の中には、「俺は自分の努力でそれなりの人生を送っている」=だからそうでない人間は努力が不足している、と誤った成功体験を覚えている者が少なくない。私が見ている限りそう思う。
しかし現実問題として、自分以外の同世代に良い人生を送れていない人が多いのであればそこには何らかの社会的問題があると考えるべきではないか。それが出来ない者は同世代から敵と見なされるだろう。
運にせよ実力にせよ、1人2人が満足いく人生を送れたからといって社会全体は良くならない。自分自身の成功に誇りを持つのは良いが、それは社会全体にとってどれほどのものか。
結局どうすれば良かったのか
上の世代も我々も自己責任論で冷たく突き放すことをいい加減にやめて、自分が知らない苦しみが世の中にはあることを理解しなければならない。軽い気持ちで下手なアドバイスをするくらいなら黙っておくのが一番である。饒舌は銀、沈黙は金。
上の世代が本当に立派で人間が出来た世代であったのならば、今の就職氷河期世代が就職氷河期世代たることは無かっただろう。救えないし救うつもりも無い相手に安全圏から何の足しにもならないアドバイスを送るのはかえって反感を買う。
自民党のやり口が気に食わない
これに関して自民党は今さら世代交代に焦ってか、就職氷河期世代の支援がどうとか言い出している。しかし本当に問題意識があるのであれば今さらが過ぎるし、ともすれば就職氷河期世代への支援とその財源を理由にして減税を拒む腹づもりなのだろう。就職氷河期世代を山車にして減税を拒む、他の世代からの矛先を氷河期世代に誘導する。心底汚い連中だと思う。
上の世代の政治家は何かと「将来の世代にツケを残さないように」などと抜かすが、もう十二分にツケは回っている。回した結果が就職氷河期世代であり、失われた30年であり、これからも続くであろう少子高齢化社会の末路である。これに関してはマシとはいえ我々ゆとり世代、そしてZ世代も無縁ではない。今をどうにかしなければツケを残す残さないといえるような将来すら無い。
余談
自己責任論はなぜ蔓延するのか
自己責任論大好き人間は相変わらず世にあふれているが、これは裏を返せば自分以外に対する責任を負いたくないという自己中心的なワガママである。「自己責任です」と言っておけば自分自身に関すること以外のあらゆる責任から逃れられる。これには政治的な責任も含まれる。「自己責任」「お前が努力しなかったのが悪い」、そう言っておけば大抵は片付くので楽だ。少なくともそれを言う側の中では。
自己責任論の蔓延は先行きが見えない中でリスクを負いたくないがゆえの防御的反応とも思えるが、バブル世代・団塊の世代が用いる場合は概ね前者だろう。政治に対する責任について考えたく無いのだ。1人の大人として、有権者としては身につまされる話である。
自己責任論では人も社会も救えない。これは本当に怒られそうな話だが、就職氷河期世代の中で格差の下の方の方々は人格が卑屈に歪んでしまっていると感じることがある。彼らをそこまで追い詰めたのは冷たい自己責任論ではないだろうか。
半分愚痴
政治の実権を握り、社会を動かしているのはまだまだ団塊の世代、バブル世代。そこで決まったことについて下の世代に責任を追及されても困る。選挙に行っても世代別人口が多い老人が行く末を左右する欠陥民主主義。一体どうしろと言うのか。
若者が政治に関心を持たないのは別に不思議ではない。実際に大人は政治を変えられていない。私の上の世代も、私の世代も、国民が政治に関心を持てば世の中こんなに変わるんだという光景を下の世代に見せられていない。むしろその逆であって、それを考えれば下の世代が政治に興味を失うことは責められない。
そうして出来上がった社会においてどのような世代が育つとも、上の世代に彼らを責める権利は無い。
私はゆとり世代でいろいろ馬鹿にするような事を言われて来たがゆとり教育を決めたのは我々の世代ではないし、その内容について方針を決めた側である上の世代から馬鹿にされる筋合いは無い。あまりの無責任さに怒りすら覚えてきた。氷河期世代はその人生を通じて同じような怒りを覚えているのだろう。察するにあまりある。