ヤマネコ目線

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先進国はなぜ少子化傾向に陥るのか

 前回の記事に続き、今回は逆になぜ「先進国は少子化に陥るのか」を考えてみたい。日本における少子化の主たる要因は経済の停滞あるいは衰退であると思うが、他の先進国であっても少子化に苦しむ所は多い。それは一体なぜなのかを考える。前回の記事↓

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安定した経済がもたらすもの

 日本その他の先進国は経済的には安定している。景気が良い悪いはあるにせよインフラは整っており、医療も十分に受けられるし教育も比較的行き届いている。生活水準は途上国などと比べて高く、それらは子育てをするにはむしろ有利に働くと思える。老いた政治家たちが「どうしてこんなに良い環境で子どもが増えないのか」と考えるのはそこにあるのだろう。

 しかし、安定した経済・社会においては子育てに関するコストは増大してしまう。人間1人を一人前に育てようと思った時、発展途上国と先進国ではそこに求められる水準と、それを達成するためにかかるコストが大きく違って来る。贅沢な悩みではあるが、そこには発展途上国などで子どもを育てる事とはまた違った困難がある。

 特に教育に関しては、社会が高度化すればするほど1人の人間にかかる費用が必然的に増大していく。初等教育だけで済んでいたものが小学生からお受験戦争をするようになり、紙と鉛筆で済んでいたものがタブレットPCを買うことになり。あくまで一例として教育を挙げたが、生活水準が上がるにつれてあらゆる面で子育てに関するコストは増大する。

 つまるところ生活水準の高さはあくまでスタートラインに過ぎないのであって、「結婚・子育てが出来るか否か」は「スタートラインから如何にそれらに必要なコストを調達できるか、出来る立場になれるか」に懸かっている。先の記事でも述べたが、そこで他国・地域の生活水準を引き合いに出すことには何の意味も無い。恋愛に求められるもの、子育てに必要な条件やコストが違い過ぎて何の参考にもならない。何なら同じ日本国内であっても、時代によってそのスタートラインやコストは違う。上の世代が今の世代を理解できないのは、そのあたりの違いも大きい。

 当然ながらそうしたコストを賄うことが出来ない(見込みが無い)のであれば、人は後述する要素もあいまって「自分は子どもを持つべきではない」と考える。経済の停滞・衰退が相まってコストを賄うことが出来ない人間が増え、少子化が加速しているのが日本なのだろう。

 コストを賄えない(見込みがない)にも関わらず子どもを持つモノ好きな人間も一部いるには居るが、それはあくまで少数派であり、そうした家庭で子どもを待ち受けているのは「生まれながらの格差」である。良心・良識ある人間であればそこで「自分が子どもを作ること」と「子どもの幸福」が両立し得ないことに気づき、子どもを作ることはおろか恋愛や結婚そのものを諦める。そのあたりの考え方はまあ、人それぞれではあるが。

 対極的に発展途上国やそれ以前の状態にある地域では、乱暴な言い方をすれば教育にかかるコストもへったくれも無い。先進国ほど経済的に豊かではない代わりと言っては何だが、子育てにかかる費用も少なくて済む。教育に関連して言うならば、性教育も無い場合が多いので本能的に繁殖行動が取れるとも見ることができる。

 むしろそうした地域では旧来的な価値観の根強さ、労働力としての子どもの重要性、病気や怪我に備えての人員の確保という面で子どもを複数人持つことが重要となる面もあるので、子どもを作ることにおいて教育や医療の水準などを気にしている余裕も無い。とにかく多く子どもを残すことが種としての発展に繋がる、という生物的に正しい選択をしている。社会保障もへったくれもないような社会においては、老いた時に自分を助けてくれるのは本当に自分の子どもくらいであり、子どもを作ることである種の保険をかけているとも見ることが出来る。

社会的・文化的な価値観の変化

 途上国などの生活基盤が安定していない地域では、大きな家族あるいは村などといった小さい共同体、近しい人間同士のつながりで密接に助け合うことが求められる。でなければ生きて行くこと自体が難しいので。環境が大自然に近づけば近づくほど、本当の意味で一人で生きていくという事は難しい。とにかく子どもを生み育てること、子孫繁栄こそが栄華をもたらすという価値観は厳しい環境から来ている。

 そうした社会では生活をするために家族、村といった共同組織の在り方が重要視され、個人の意向や自己実現の優先順位はそれほど高くない。優先しようとしても下手なことをすればそれで生活が立ち行かなくなるので、優先できない。日本も大昔はそうであったはずで、自称保守がしきりに礼賛する家族制度などの背景にはそうした要素がある。

 しかし経済・社会が発展し、インフラも充足してそうした共同体に頼らなくとも人々が生きていけるようになった時、共同組織の意向を重視する風潮はむしろ邪魔になって来る。もはやそうした組織という縛りは個人が自己の幸福を追求する上での足枷でしかなく、またそうした組織を形成する必要自体が希薄化する。何ならそうした組織の形成や意思は忌避さえされ、個人主義が主流となっていく。

 そうして組織、生活共同体としての家族の在り方が薄れたことの現れが「核家族化」だろう。核家族化の要因はそればかりではないが、確実にその要因の1つではある。社会・経済が安定すれば、両親と子どもだけで生活を維持することが可能なのである。

 逆に考えれば自称保守の復古主義者たちが主張するような、旧来的な組織としての家族の在り方は少なくとも今の日本においては受け入れられない。受け入れられようが無い。そうした組織を形成する意義が無いどころか、むしろそれによる個人の意思の拘束が邪魔になるので。「昔はそれで何もかも上手く行っていた」という幻想があるのだろうが、社会・経済全体のステージが違うのでそれを目指す意味が無い。それほど昔の生活が良いなら、有志だけで集団で農村に移り住んで農耕でもしたらどうか。

 話が逸れたが、そのようにして個人主義が主流となった社会においては自分の人生を決めるのは自分であり、その中で価値観も多様化していく。個々人の価値観に共同組織的な、硬直した価値観が入り込む余地はあまり無く、その流れの中ではそれまで絶対的な価値であった物事が価値を維持できるとは限らない。

 当然、そこには「結婚して子育てをする」という事も含まれる。むしろ「結婚して子育てしろ」という価値観の押し付けが、それに対する忌避感情さえ生むかも知れない。少なくとも結婚・子育てが絶対的な価値の立場から離れるという点で、価値観の変化から先進国は少子化傾向に陥る、陥りやすいと言える。

 また、安定した社会に生まれてきちんと教育を受けて育った人々は物事に対する責任や、何かをする事で生まれる負担について正しく理解することが出来る。経済が停滞・衰退する中では、結婚や子育てをすることで生じる責任や負担の大きさを正しく評価できる人間であればあるほど、結婚や子育てに対する価値観はゆらぎやすい。

女性の社会進出

 これは正直、書くべきかどうか迷ったがあくまで一般論として。女性の社会進出の流れを止めるべきと言う意図は無いので悪しからず。

 まず前述した流れのように、先進国では個人の自己実現、意思が優先される。そこで女性は結婚や子育てよりも、自己のキャリア形成を優先するという選択も取り得る。となれば必然的に結婚や子育てをするタイミングを遅らせる、あるいはその数自体が減る可能性は高い。晩婚化の一因はここにあるのだろう。子どもを生むことが出来るのは(一般的に)女性だけであるので、女性の社会進出と少子化問題は残念ながら切り離すことが難しい。

 政府、社会全体で女性の社会進出と結婚・子育てを両立することが可能な制度設計、運用が出来ればこれは解消するだろうとも思うが、口で言うほど簡単ではないだろう。

 その点、日本において一番問題なのは「夫婦共働きでなければ子育てなんか夢のまた夢」というような世の中、経済にしてしまった政府。それを支持し続けて来たしこれからも支持し続ける国民なのだろう。「女性の社会進出」、「女性が活躍する社会」というのは社会的に前進している側面もあるが、こと日本国内においては「経済的な困窮によって、子育てをしたいなら女性も働かざるを得ない家庭が増えた」というだけの話ではないか。どうにもその辺り、女性の社会的地位向上という口実でうまく誤魔化されているように思う。

少子高齢化

 少子高齢化自体もまた、少子化に拍車をかけると思われる。日本人であればもはや語るべくもなく分かると思うが、これまでに述べたような要因から一度少子化傾向になってしまえば、適切な政策を取らない限り人口の逆ピラミッド化とそれに伴う社会保障費用の増大は止められない。そして現役世代への負担が増してゆく。

 それでも国内経済が堅調かつ政府が格差を是正し続けていれば多少はマシなのであろうが、格差是正どころか格差を拡大させ続け、少子化だからと言って様々な政策を取るための財源として現役世代への負担を増し続ければ、現役世代は経済的に結婚や子育てどころの状態ではなくなる。そうなれば、むしろ結婚や子育てにかかるコストこそが自分自身の生活を脅かしかねないものとなり、そうしたライフイベントの価値は希薄化してしまう聞いてるか日本政府、自民党公明党