ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

生ぬるいこと言ってんなよ

 政治資金規正法改正案に関する内容がようやく出てきた。収支報告書の不記載が悪質なら相当額を没収するという案のようだ。収支報告書提出の際には議員による「確認書」の提出を求める制度も検討しているとしている。

news.yahoo.co.jp

(記事題:収支報告不記載、悪質なら没収案 予算委では旧文通費が論点に浮上)

生ぬるいことばっか言いやがって

 正直この感想しかない。まず「悪質だった場合」とは一体誰がどのように判断するのか。それが国民感情と合致するかどうか到底信用できない。最近決まった安倍・ニ階派の裏金議員についての処分を見れば、彼らの中での「厳しい処罰」とは何かがいかに国民の感覚とかけ離れているかよく分かる。

 「党役職停止」という痛くも痒くもない形式だけの処罰を受ける議員は裏金1,000万円超当たり前。一番軽い「戒告」で済む議員は裏金500万円超え当たり前。中にはほぼ1,000万円の議員もいる。

 そも、処罰するのであれば安倍・ニ階派に限らず裏金問題のあった全員が処罰されるべきだ。しかしその2派以外の処罰内容については聞こえて来ない。

 これからの法改正うんぬん以前に現状がまずなっていない。この先、誰がどのような基準で判断するにしてもその判断に信用を置くことは不可能である。悪質かどうかなど問題ではない。裏金を作った議員は問答無用で全員処罰するべき。

 少なくとも現状を見て自民党に正常な自浄作用を期待できるほど私はお人好しでは無い。悪質であるものを悪質であると認定し、是正していくことを期待することは出来ない。それが出来るなら最初からこのような問題は無かった筈だ。

 加えて「没収」という表現が引っかかる。没収された金はどこへ行くのか。まさか党が回収するなどと言うまいな。それでは実質的に処罰にならない。没収された金と同額を別ルートで回せばロンダリング完了だ。

 国庫に納めるというのなら良し。ただし裏金にかかる追徴課税分も納めなければ納得できない。法の不遡及」があるので今回の裏金問題については出来ないにしても、次からこのような事があれば追徴課税分も納めるべきだ。本当に二度とこのような事態を起こさないようにするならば、当然それくらいするべきだろう。

 収支報告書提出の際に議員に「確認書」を求めるなどと言う話は、その確認書を根拠として連座制を導入するまで行かなければ有効な解決策として認められない。そうで無いなら無意味。形骸化することが目に見えている。一般的な感覚からすれば「確認書まで提出しているのだから当然その内容に政治家は責任を負う」と考えられる訳だが、政治家の感覚はそのようなものでは無い。いざとなればどうとでも言い逃れして責任逃れをする。ガチガチに逃げ道を塞ぐもので無ければ信用できない所まで来ている。

 それにしても、共同親権法案の”議論”と国会通過の速度と比べると裏金議員の処罰、政治資金規正法改正案のさわりが出てくる速度いずれも遅い。遅過ぎる。別に早ければ良いという訳でも無いのだが、遅い上に納得できない内容が出てくるのだからたまらない。本当にこいつら「自分たちがやりたい事だけ」やってるんだなという感じ。

 あと派閥解散って言ってたけど実質は解散してないよね?何がどうなれば誠意見せるんだコイツら。最初から派閥解散なんて出来るとも思っていないし、それが裏金問題に関して根本的な解決策になるとも思ってはいないが、自分たちでやると言い出したことすら未だに「準備中」などとして出来ないのは何なんだ。

 ひょっとして「既に誠意は見せた」と思ってる・・・?可能性あるな・・・

河村市長の発言

 Xで名古屋市、河村市長の発言が話題になっていた。曰く

「祖国のために命を捨てるのは高度な道徳的行為だ」

 と。後に記者団に向けて「(命は)捨てない方がよい。誤解してもらってはいけない。『捨てよ』とあおっているわけではないが、残念ながら戦争は起こる」と釈明はしているが違和感は残る。

news.yahoo.co.jp

(記事題:河村市長「祖国のため命捨てるのは道徳的行為」 会見で持論、釈明も)

 この発言は「なごや平和の日」の意義を問われ、先の戦争の犠牲者についての見解を述べたものと思われる。

 自己犠牲の精神が時として賛美されるだけの理由を持つことは否定するまい。しかしそうでない場合も多々あり先の大戦のようにケンカを売る相手を間違えてこれ以上無いくらい酷い負け方をした戦争、その犠牲者について犠牲を悼みこそすれ賛美することは許されるのか。その辺りに非常にひっかかる物がある。

 犠牲者を追悼することと賛美することを履き違えてはいまいか。自己犠牲を賛美することで愛国心に酔ってはいまいか。

 本当に「高度に道徳的」ならばそれは推奨されるべき事なのだが、先の大戦についてそれは果たして本当に推奨されるべき事だったと思うのか。現代においてもそれが「高度に道徳的である」と思うのか。

 自衛隊の方々の「いざという時には命をなげうってでも」という思いは道徳的であると認めよう。しかしそれは「祖国のため」というよりは「日本国民を守るため」であるべきだ。今や日本という国=天皇の国では無い。国民主権であり今と昔では「祖国」の意味するものは異なる。

 神風特攻隊は「無駄死に」だったのかどうかなどとこの手の議論は尽きない。しかし有意義だったか無駄だったか以前に戦争そのものが非道徳的行為の極みであり、神風特攻隊については爆弾の誘導装置として人間を使うこと自体が著しく非人道的であってその是非に議論の余地は無い。

manuller416.hatenablog.com

 自己犠牲が賛美され得る場合があるとすれば人命を救うためだったとか、あるいは戦勝国において悪の枢軸に打ち勝ったとかそういう文脈であろう。

 その点、敗戦国の人間が当時の悲惨な戦況を省みずに犠牲を美化するのは虚しい。犠牲を礼賛することによって自分も何かを祖国に捧げたつもりになって、誰からも必要とされない自分自身を犠牲に重ねて酔っているのはもっと虚しい。うすら寒い。自分の価値を国や民族といった大きな括りにしか見出だせず、何も無いものを大きく見せようとしている、自分自身を騙そうとしている。愛されないゆえに国に愛を求めている。それは現代における在るべき愛国心ではない。

 そうでなくとも「国のために国民がいる」のか、「国民のために国がある」のか。履き違えている政治家が多過ぎる。戦前からの支配体系が戦後も変わっておらず、国民の意識も大日本帝国の臣民からほとんど変わっていない。これでは過ちを繰り返す。好む好まざるに関わらず戦争は起きる時は起きてしまう、そういう意味では「残念ながら戦争は起こる」という点には同意するが、それにしてもあまりに口下手。

 メダルかじる前に話術を齧れ。というかもう辞めたら?