ヤマネコ目線

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特攻隊は「無駄死に」だったのか

 書き散らし。少し前にX (旧Twitter)で特攻隊が「無駄死にかそうじゃないか」で盛り上がっていたのを思い出したので、個人的な見解を。

無駄かどうかを言い出すと

 そもそも「無駄かどうか」を言い出すと、先の大戦で負けた日本を客観視すれば「意味のある死」を見出す方が難しい。厳しい話ではあるが、これは日本に限らず第二次世界大戦で散ったあらゆる国の兵士について言えるだろう。戦勝国から見れば総合的に「悪の枢軸に打ち勝った」という意味のある死こそあれど、戦果に何ら貢献なく散って行った兵士は無数にいる。

 それを考えれば「無駄死にかそうではないか」などという議論には意味が無い。論点が間違っている。同様の論争はたびたび起きているが、「無駄死に」とあえて断言することへの侮辱とそれに対する反発が生まれているだけ。戦争のように互いの薄っぺらい正義を押し付け合うだけの非生産的な議論である。

純粋に非人道的が過ぎる

 いくら戦争中とは言え人間を爆弾の誘導装置として使用するという行為が純粋に非人道的であり、「無駄かどうか」云々以前に二度と繰り返されてはならない戦法といえる。それを「お国のための尊い自己犠牲」と下手に肯定すれば、いつかまた特攻が繰り返される可能性がある。なので迂闊に肯定は出来ないし美化するべきでは無い。

 右翼のポジショントークとして特攻を美化することも、本質を突かずに侮辱的な表現で否定しようとすることも、どちらも最悪だ。

 前者は自分が”英霊”としての立場を肯定することで気持ちよくなるために、政治的主張のために人の死を利用している。それで一丁前の愛国者になったつもりでいる。この国はもう大日本帝國では無いし、我々は天皇陛下の臣民ではなく主権者なのだが。いくら特攻を肯定しても、自分は勇敢で自己犠牲精神に溢れた兵士にはなれないし所詮は他人事なのに。

 後者はあえて侮辱的な表現をすることで、特攻を下手に肯定する連中に厳しい現実を叩きつけた気持ちになっているのだろう。それで太平洋戦争に批判的な平和主義者としての自分に酔っている。が、たとえ戦果が釣り合っておらずとも払った犠牲に何かしらの意味を求めたがる、意味があったと思いたがる人間の心を理解していない。むしろそうした強い否定に対する反発から、特攻を肯定的に捉えようとする人間を生んでいる可能性すらある。

 こうした反発は、いわゆる保守が口にする「自虐史観」、「平和ボケ」、「特定アジア」などの言葉によく表れている。支払った犠牲も掲げた正義も敗戦国として否定しなければならない一方で、戦勝国の行為は原爆投下まで正当化される矛盾。盲目的に平和を求めて軍事を忌避し、平和の何たるかを忘れた平和教育の現実との乖離。隣国からいつまでも蒸し返し問われる戦争犯罪の責任。ここに反発が生まれるのは何ら不思議ではない。それらが”正しい”と言えるかどうかは別として、人間の感情としては自然と言えよう。

 感情がある限り、物事にどこまでも冷静に向き合うことは難しい。何かしらの偏りは誰にでもある。重要なのはそこから一歩引いた視点で見ること。それが常に出来るとは限らないが、そうしようという意識は必要だ。下手な美化も死体撃ちも必要無い。特攻についてある事実は「非人道的で、多くの若者の命が失われた二度と繰り返されるべきではない戦法」だということ。

 ちなみにナチス・ドイツは船舶を空爆するために、爆撃機から投下される爆弾を目視と三軸ジョイスティックで有線誘導する兵器を使用していた。何かのドキュメンタリーで観た覚えがあるが、それに比べると日本の特攻戦法のなんと非合理的・非人道的なことか。あの時代にしてはなかなか異常な技術力のナチス・ドイツのなせる業でもあるが。一方、アメリカは鳩を誘導装置の代わりに使おうとしていた・・・。

 有名な話だがソ連では戦車に向かって爆弾を運ぶ装置として犬を使う試みもあった。いわゆる対戦車犬、地雷犬、爆弾犬と呼ばれるもの。人間を使わないだけマシだが、生命を誘導装置代わりにするという点では人だろうが犬だろうがなかなか倫理的に考えさせられるものがある。戦争ではそんな事に構っていられないのだ。なお結果は多くの人が知る通り、爆弾犬は自軍の戦車の下にもぐりこんで味方に被害を出しましたとさ*1

 生命を武器、兵器の一部として使用することは、いくら戦争でも人の道に外れた行為と言えよう。時にはその報いを受けることにもなる。人間はまだ従順な部類で処理能力も高いが、量産できる訳でも無いし特攻なんかに頼らなければならない時点でその戦争には敗けている。他に生物を利用した兵器・・・ニワトリ・・・核地雷・・・いや、知らんなそんなもの。

余談:特攻隊から今の日本を見るとどうか

 特攻隊の視点から今の日本を見るとどう感ぜられるか、を考えた事がある。いわゆる保守の言う”英霊”としてこの国を見守って来たとすれば、どう感じるか。

 自分たちがその生命を賭しても戦局は変えられず、判断ミスで原爆を1度のみならず2度も落とされて多数の民間人が犠牲となり、結局は降伏して敗戦が確定。よりによって鬼畜米英と憎んだアメリカに日本人がする以上の丁寧な戦後処理をされ、民主化されて半ばアメリカの属国として復活。朝鮮戦争アメリカの手伝いをして経済も復活。しかし本質的な民主主義は根付かずバブルを経て長期の低迷に入り、腐敗した政治家と利権の巣窟となった日本。

 今のこの国を見て、果たして彼らは自分たちの犠牲を「意味があるものだった」と肯定できるだろうか。我々はそれに恥じない生き方をしているだろうか。「特攻隊の方々の犠牲あって今がある」などと美化するのは勝手だが、その辺りをよくよく考えた方が良い。

 大体、本来のことを言えば今のこの国があるのは「特攻隊の方々のおかげ」とは言いづらいだろう。敗戦の事実に打ちのめされながらも戦後処理でGHQと戦った人々、賢明に先を見据えた日本国憲法を作った人々、国家の体を崩さず、瓦礫の山から立ち上がって来た国民のおかげ、な筈だ。いわゆる保守は日本兵の犠牲に対する侮辱には敏感だが、同時に戦後の日本を支えて来た真の功労者、「戦後の日本人」たちの存在を軽視している。

死者には戦後復興は手伝えぬ。

 

*1:最初から失敗だった訳ではないが、ドイツ軍が対策として火炎放射器を装備したため犬が怯えて戻ってきた