ヤマネコ目線

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武器・兵器の美しさとは

 書き散らし。かなり前、「AK-47がもっとカッコ悪かったら売れない銃になって世界はもう少し平和だったのに」、といった感じのツイートを見かけた。今回はそれに関連して私なりの武器・兵器観を少し書きたい。

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 AK-47、通称カラシニコフ。大抵の人は知っている世界3大ライフルの1つ(あと2つはM16とG3)。

優れた武器・兵器は美しい

 まずもって冒頭のツイートの内容に反論するが、AK-47はカッコいいから売れたのではない。優れた武器だから売れたのであって、人間がそれをカッコいいと感じるのはそれが優れた武器だからである。完全に順番が逆だ。

 武器・兵器に関してこういうことを言うと、嫌悪感を示す人もいるだろう。しかし世の中には私も含め、武器・兵器にどことなく惹かれる人間がそれなりに居るのも事実。銃であれ戦車であれ、刀であれ戦闘機であれ、あらゆる武器にマニアがいる。純粋に考えれば破壊と殺人の道具でしかないのに、なぜそれらが人を惹きつけるのか、考えた事はあるだろうか。

 私なりの解釈をすれば、その結論はそれらが「自分たちの生存に役立つと感覚的に感じるから」。かなり抽象的な話になってしまうし独自の仮説に過ぎないが、優れた道具に機能美を感じるのと同様、優れた武器・兵器は見ただけで直感的に、それさえあれば人間同士の生存競争に勝つ事ができるという事を感じ取れるのだと思う。刀などはそれを通り越して芸術の域に達した美しさの武器もあるが、基本的にそのベースには「役に立つ」がある。

 これは小さい子供(特に男子)が重機などに惹かれるのにも共通する。おそらく子供は何がどの程度まで役立っているかは理解できていない。ブルドーザーが整地をする意味やクレーンが物を吊り上げる事にどんな意味があるかまでは理解していない。それでも子供が重機に惹かれるのはなぜか。それは人類の種としての発展に重機が役立つからである。それをおそらく小さいながらに感じ取っているのだと私は思う。

 結論として冒頭に紹介したようなツイートに限らず、「こんな道具があるから悪いんだ」というのは発想が逆というか、道具が生まれてどのように今に至るかを理解していない。あらゆる道具が登場しては消え、一部が生き残り、発展してを繰り返して今がある。武器・兵器は最初から今の形で地上にあった訳ではない。すべて人類が発展させて来た訳であって、その存在から人類を切り離す事は出来ない。

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 ステルス機、特にF-22はどの角度から見ても美しい。各部の角度、大きさのバランス、曲線。

武器・兵器が好きは幼稚か

 「戦争ごっこか」と茶化すセリフはどこかで聞いた事があるが、日本では軍事、武器、兵器に関心を持つと「幼稚な人間」のレッテルを貼られる。まあ勝手に言ってろと思っているが、こういった風潮はあまり好ましくない。

 軍事・安全保障は国家を存続させる上で重要な要素であり、決して切り離せるものではない。軍隊を持たない国というのは一応あるが、それは他国の軍隊を国内に駐留させているのが前提であり、もとより主要先進国で軍隊を持たない国は無い(自衛隊は軍隊じゃないとかそんな建前だけの話はこの際、どうでもよい)。なぜどの国も軍隊を持つか。それは軍事力無しには平和と秩序を保ち得ないからに他ならない。正確には軍事力の均衡が問題だが、とにかくロシアによるウクライナ侵攻を見れば国際法、国際秩序といった法的な、人間の理性に基づいた実体なき力が絶対的でない事など火を見るより明らかだ。

 そのような重要事項に国民全体が関心を寄せるどころか、関心があるだけで幼稚な人間であるとされるのは奇妙かつ不幸な話である。戦勝国ではないので仕方ない面もあるのだろうが、それにしても酷い。現実から目を反らして解決する事は何もない。それでも幼稚だと思うなら一生、そう思っていれば良い。世界はそんな人間など無視して先へ進む。

 軍事開発に関しても同じ。日本だけが(特に学術界が)意固地になって軍事開発を拒んだ所で、世界という巨大な歯車はそんなことお構いなしに回っていく。それどころか日本はかつてほど科学技術で世界に存在感を示せなくなって来た。今や夢ある技術はほとんど中華製、これから追い越されるのは時間の問題であり、アカデミックな業界も民間企業も関係なく、安全保障に協力できる事はしていくべきだ。

単純な日本の軍事忌避論

 それに関連して日本の平和教育に関してモノ申したい。日本は太平洋戦争でこっぴどく負け、その反動でいわゆる平和教育がなされて来た。そこにはある種のトラウマから来る単純な軍事への忌避が大いに含まれている。あまりに惨めな負け方をしたのでその結果を引きずるのは理解できる。しかし結果ばかりを引きずって軍事・安全保障そのものを忌避、思考停止に陥り、本当は何が悪かったか、これからどうすべきか考える事を放棄すればまた過ちは繰り返されるだろう。「定期テストで酷い点数を取ったので勉強自体をやめる、見直しも何もしない」、そんな姿勢で「過ちは繰り返しませぬから」など、お笑いだ。

 実際問題、平和教育は「平和」の本質を教えず、ただ漠然とした理想論の下に日本人へ軍事忌避・単純な反戦感情を植え付けて来た。その中で冒頭に書いたような浅はかな発想が出て来るのは何ら不思議ではない。

 「平和」という言葉は不思議なもので、その言葉の真に意味する状態を見定めるのは難しい。以前にも書いたが共産主義者の言う「平和」と、そうでない人間が思い描く「平和」とでも中身は違う。具体的にどういった状態が「平和」かの定義でまず思想が分かれるが、私が考える平和は「軍事力の均衡」であり、少なくともそこでは平和と軍事を切り離す事はできない。

 全く同じ考えに至らずとも、「平和とは何か」は現実世界の動きを観察していれば何が概ね正しいかは理解できる。それがあらぬ方向に行く人間は現実を観察し、考える力に欠けている。これからの時代、人間社会だけでなく地球そのものが不安定化し、人間同士の争いが増える可能性は高い。その中で日本は「平和」に関する教育を改める必要がある。いや、嫌でも教育を受ける側、受けた側が実感する事になるだろう。「日本の平和教育は間違っていた」と。