ヤマネコ目線

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プーチンの行動が改めて示したもの

 去る2月24日、ロシア軍がウクライナへの侵攻を開始した。これが世界に知らしめた事は何か。

戦争の本質

 戦争の本質は突き詰めて行けば「人間同士の生存競争」である。領土が欲しい、資源が欲しい、安全保障の脅威を感じる、いずれにしてもそれらは国家という名の群れが生存あるいは繁栄するための理由であり、戦争の原因は直接的・間接的問わず多分にそういった野性的要素を含む。

 人間が構成可能な群れ(=国家)の規模に限界があり、その限界が地球上を覆い尽くすに至らない以上、群れ同士の衝突は避けられない。古来より大小問わずさまざまな国家が勃興しては滅亡して来たが、いかなる大国といえどただの一度たりとて地球全土を統一できた国家は存在しない。そこで確実に言えることは、国家規模での生存競争はいかなる形であれ、いついかなる時でも必ず起こり得ると言うことである。たとえ科学や文明の力がいかに発達しようとも人間が人間である限り、動物である限りは戦争は無くならない。

指導者の賞味期限

 プーチン氏が示した残酷な現実の1つは、「どのような指導者であっても、指導者として相応しく在れる期間は限られており、それは少なくとも本人が考えているより短い」と言うこと。当たり前と言えば当たり前の事ではあるが、元KGBで屈強で冷徹な男が権力者のまま狂ってしまった現実はやはり恐ろしい。

 当たり前と言えば当たり前とは書いたが、これを当たり前として賞味期限が過ぎる前に権力の座を明け渡す者がどれだけ居るだろうか。これは民主主義国家か独裁国家かを問わず、一国のトップでなくとも副大統領や大臣クラスにも言えることだ。この賞味期限を守らずに大なり小なりろくな事になっていない国は多いだろう。我が国ももちろん例外ではない。

法や理性の弱さ

 法による秩序や人間社会などというものは所詮、我々人類が勝手に作り出した自分ルールでしかない。ゲームの世界のように、この世界そのものに根底的に実装されているものではない。むしろ根底にあるのは野性的な世界であり、弱肉強食的なルールであり、そういったルールの方がよほど強い。プーチンの決定は改めて世界にそれを証明した。核戦争の脅威を盾に侵略を開始し、実際に力によって秩序を破壊したのだから。この先どのような運命がプーチンに待っているかは知らないが、どのような結末を迎えても既に破壊されたものは元に戻らない。

 一部では「ロシアに憲法9条があれば」などという事を言う人間がいたが、現実問題としてロシアに憲法9条など存在しない。憲法9条を採用している国を日本以外で見つける方がずっと難しい(というか無いのでは)。9条を素晴らしいものとして言う人々もいるが、現実はその「素晴らしいもの」は世界には浸透しておらず、紛争を止められた試しなど無い。逆説的に考えれば当然の話である。憲法に「戦争はいけません」と書いて戦争が止まるのであれば、あらゆる犯罪行為を憲法で禁止すれば世界から犯罪すら無くすことが出来る。そんな愚かしい論理が現実で通用する筈がない。

 たとえロシアに9条があったとしても、プーチンのような権力者であれば自分にとって邪魔な憲法はさっさと変えて見せるだろうし、そうでなくとも「自衛権の行使の範囲内だ」と宣って平然と同様の決定を下す可能性は高い。少し考えれば分かることで、すぐ9条がどうのと抜かすような人間は想像力が欠如している。

 そして理性も法と同様に弱い。一部の人間は理性に過度な信頼を寄せ、それによっていかなる問題も解決できると主張して見せるが、現実は理性など野性の上に立つ砂上の楼閣に過ぎず簡単に瓦解し得るものである。日ごろ突発的に起きる犯罪はもとより、ウクライナ侵攻を指示したプーチン氏の精神状態を危ぶむ声もあるように、人の理性は欲や焦り、精神的な不安定さから簡単に崩壊し得る。「話し合いで何でも解決できる」というような論理は前提として相手に理性的な対応が出来る前提に立っているが、その前提が簡単に崩れる以上は到底、広く通用する理屈とは言えない。

 法の秩序をいえば第一にブダペスト覚書があったのだが、一方的に破棄されている。これは簡単に言えば「核を放棄する代わりにロシア、アメリカ、イギリスはウクライナベラルーシカザフスタンの独立と主権を尊重し、武力行使や経済的圧力を控える」という合意であったが、ウクライナ侵攻以前にもロシアは度々これを無視している。

世界平和はやはり幻想

 もとより我々は、ご近所同士でのトラブルや同等の小さな諍いすら無くすことが出来ない。比較的平和なこの国ですら、テレビをつければ毎日誰かが誰かを殺している。個人間の紛争ですら無くせないのに、なぜ国家間での紛争が無くせると信じる者がいるのか理解に苦しむ。現実をもっときちんと観察し、人間とは何か、どういう生き物で何が出来て何が出来ないかを考えるべきである。

特別扱いされるウクライナ

 断っておくがウクライナに寄り添う心は私も変わらない。一刻も早く戦闘が集結し、人々が元の生活に戻れる事を望む。しかしウクライナで起きている紛争に対する世界の動きと、これまで中東などで起きて来た紛争に対する世界の反応は明らかに違うし、それには違和感を感じる。当然と言えば当然なのかも知れないが、白人でありキリスト教徒であるウクライナ人を助けようという欧米各国の動きの熱量は、主にこれまで中東で起きた紛争に対するそれとは明らかに違う。結局、力を持っているのは白人であり、白人が攻撃されることが世界が動く条件なのだと改めて認識させられる。

 たとえば「ロシアの攻撃によって民間人2,000人が死亡」というニュース、痛ましいニュースではあるが、これまで中東で米軍の無人機によって殺害された非戦闘員の数はどうだろうか。単純に数値だけの問題ではないが人命は人命だ。イスラエル軍ガザ地区空爆を行っている時も、中国がウイグル人を虐殺している時も、世界はここまで動いただろうか。もちろん様々な要素で違いはあるが、扱いの差は明らかだろう。

 難民の受け入れに関しても同様で、シリアからの難民受け入れとウクライナからの難民受け入れはスピード感や熱量が違う。こちらはイスラム教かキリスト教かが大きく関係しているのだろうが、逆に言えば欧米各国はキリスト教以外はそこまで熱心には助けないのだろう。イスラム教はイスラム教であまり現地に馴染む気がないと言うか、「これが我々のやり方で信仰なのだから認めろ尊重しろ」という感じが敬遠されるのは分かるが・・・。余談ではあるが、アメリカの給食はえらく貧相に見えるものの、他人種であり他宗教を考えればああせざるを得ない所があるのかな、とも思う。日本の給食でもハラルじゃないから食べられないだの何だのと言い出しているようだし。

核兵器による平和の現実

 核兵器が登場してからと言うものの、世界の平和は核兵器同士のバランスで保たれて来た。これは裏を返せば核兵器が無い、あるいはウクライナ戦争のようにどちらかが核兵器を持たない場合は平和が容易に崩れ去ることを意味する。もとより核兵器が存在する以前の世界では、人類はある意味で安心して殺し合いをして来た。それが歴史であって、核兵器が登場する以前の世界は平和だったかと言うと全くそんな事は無かった。核兵器のある世界であってもイラン・イラク戦争やその他の核が関係ない紛争では明らかに世界は燃えて来た訳で、核抑止力が無ければ現代でもどこであっても戦争は容易に起こり得る。

 相互確証破壊を前提とした偽りの平和が良いと言いたい訳ではないが、現実は二者択一、トレードオフの関係にあるのだろう。「核が無いが安心して殺し合いが勃発する世界」か、「核があって平和と滅亡が紙一重の世界」か。その世界の狭間がウクライナであって、その狭間でもまた戦争が起こり得る。むしろ核保有国が核戦争の脅威を盾に侵略を開始した今回のウクライナ戦争は、その狭間が核戦争の脅威を持ちながら、核の無かった世界と同じくらい燃えやすい可能性すら示唆している。核保有国が核、核戦争の脅威を盾に一方的に弱者を殴り得るからだ。

日本の核保有

 維新の松井氏や菅元総理が非核三原則の見直しについて言及したが、それは被爆国としても国民感情としても当面は不可能だろう。敵国条項は実質的に死文化しているので無視してよい。中国がそれを利用する可能性はあるが修正が実質的に不可能であり、利用しようとするのが中国くらいであれば何ら問題はない。

 核の直接的保有よりも、国内にあって国内にあらずな米軍基地にアメリカの核戦力を配備してもらうのが最も迅速で効果的かつ現実的だろう。元より日本は戦後からずっとアメリカの核の傘の下にいる。その核の傘の下でずっと軍事から目をそむけ、安全保障面でアメリカに甘えて来た。今さらその事実は変えられないし、おそらくこれからも変わらない。とすれば出来る事は国内の米軍基地による抑止力強化しかない。自衛隊は精鋭揃いと言っても国産兵器が先進性に欠け、少子化がこれからも加速度的に進んで行く中では自衛隊の戦力による安全保障の確保は期待すべきではない。

 何より問題なのは議論のタブー化であり、安全保障を確保する必要がある以上、そして核を持たない場合にどのような事が起こるかをロシアとウクライナが示した以上、いかなる可能性も排除しない議論が必要になる。戦後から日本はこの点が劣ってきた。戦争にこっぴどく負けたからと軍事そのものをタブー化し、安全保障に正面から向き合って来なかった。アメリカが居たからそれでもなんとか今日まで比較的平和な国としてあるものの、国際社会におけるアメリカの影響力はいつまでも今と同様にある訳ではない。むしろ今の時点で翳りすら見られる。その中にあって、日本が小国なりにいかにして安全保障を確保していくのかの議論からはもうそろそろ、逃れる余地がない。

戦車不要論について

 余談。ウクライナにおけるロシア戦車の苦戦から戦車不要論がまた出て来ているようだが、現在投入されているロシア軍の戦車は旧型(おそらく訓練用に使っているレベル)であり、アクティブ防御システムと呼ばれる対戦車兵器を無力化できる装備も付いていない。要は「まだ本気のレベルじゃない」。そして戦術がそもそも間違っており、戦車を投入したもののその強みを全く活かすことが出来ず、アメリカがばら撒きに撒いたジャベリン対戦車ミサイル等の餌食となっている。結論として戦車うんぬん以前に運用の仕方の問題であり、ウクライナ戦争を見て戦車不要論を持ち出すのは不適切である。

 歩兵携行の対戦車兵器は確かに発達しているが、今回ここまでロシア軍が苦戦しているのは西側諸国からの手厚い援助があったからであってそうでない場合は厳しかっただろう。私はゲームでしか体感した事はないが、対戦車兵器を持っていない時に戦車に出くわした時の絶望感を知っている。小銃では絶対に対抗出来ないし、開けた場所では近づけない、下手に顔を出して砲撃されようものならひとたまりも無いし、市街地ならまだしも少し開けた場所で出くわすと逃げることしか出来ない。戦車は使い所・使い方さえ間違えなければまだまだ有効な兵器である。

中国の台湾侵攻はあり得るか

 この点については私は無い、あるいは無くなったと言いたい(というか思いたい)。ロシアのウクライナ侵攻とそれに対する世界の動きを中国はよく観察している筈であり、台湾を取るか世界との利害を取るかという選択を迫られれば、後者を取った方が明らかに得だと中国は理解しているだろう。元より中国は侵略の手法をロシアのようなハードパワー(実際の武力による侵略)からソフトパワー(政治的工作や移民による国内部での影響力増大)へ切り替えている節があり、これから注意すべきはそういった軍事力によらない動きである。具体的には香港がまさにそれで、民主主義的な手法と言いつつも今や中国共産党の傀儡が上層部を支配している。

 ただし、ハードパワーによる支配の可能性が消えたとも思えず、微妙な所ではある。前述したようにウクライナがここまで欧米から支援を集められたのは、ウクライナが欧州の一員であり、ウクライナ人が白人でキリスト教徒だからである。中国のすぐ近くにある台湾が危機に晒されても、キリスト教徒でもない極東のアジア人の小国を救おうとどこまでの国が本気で動くだろうか。中国はそのあたりもよく見ている筈で、むしろウクライナ危機が落ち着かない間、コロナウイルスによって世界的に経済が冷え込み、戦争する余裕などどこにも無い間が好機と捉えているかも知れない。いずれにせよ、ウクライナ戦争はプーチンが作ってしまった悪しき前例となってしまうだろう。いかに世界がこれに対処しようとも、NATOが派兵を行っていない以上はウクライナがいつまで持つか怪しい。