ヤマネコ目線

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「発展途上国は貧しいのに少子化ではない」

 私は少子化の原因は明らかに経済的な要因、主に貧困の拡大あるいは格差拡大だと思っているが、一部の人々は

発展途上国は貧しいけど少子化にはなっていない、だから少子化の原因は経済的なものではない」

 という論理でそれを否定する。これに関して。

詭弁への反論

 そうした人々が言う「貧しい発展途上国」の環境は、あくまで我々(日本)の生活水準と比較すると貧しいだけであって、その国・地域に住んでいる人々からすればそれが標準レベルである。我々からすれば「貧しい」でも、彼らからすれば「貧しくはない、普通」。なのでそうした国で少子化が問題となっていなくとも、不思議でも何でもない。彼らにとってはその環境が標準であり、その中での社会的・経済的な立ち位置が結婚、子育てするに値するものであれば普通にそれが出来る。それまでのこと。

 話を極端にして、「アマゾンの原住民でも結婚して子育てしているのにどうして日本人はしないのか」と言い換えてみれば、それは論理の組み立てがあまりに乱暴であると分かるだろう。それが発展途上国との比較となると、なぜか妙に納得してしまう人がいる。そうした話の組み立ては生活水準以外の要素をあえて無視した詭弁に他ならない。

 問題なのはその国・地域の中における社会的、経済的な立ち位置であって、そこで他の国・地域の生活水準と比較して貧しいか否かは全くもって何の参考にもならない。日本で子どもを一人前の大人に育てることと、発展途上国その他の地域で同様のことをするために求められるものは違う。よく教師なんかも「アフリカの子どもに比べれば~」というような事を言うが、ここはアフリカではない。

 生活水準だけを考えれば日本は確かに恵まれているし、それには感謝すべきなのだろう。が、日本国内で生活する以上はそれが最低限のスタートラインであり、その上で格差を拡大させ続けた結果が少子化とその加速である。冒頭で書いたような乱暴な論理からは、経済的な要因からあえて目をそらさせようという意思さえ感じる。上の世代にとって(特に政治家連中)そうした事実は都合が悪いので、それっぽい詭弁で言い逃れしたいのだ。それで下手に納得してしまう人間がいるのも良くない。

 そうした詭弁にはまず疑問を持つべきであるし、反論しづらいのであれば極端な例を考えてみれば良い。今回であればアマゾンの原住民を引き合いに出したが、そうした極端な比較対象を持ち出して来れば論理が都合の良い方向へ捻じ曲げられていることに気づきやすい。それでも「おかしい」と思えないのなら終わり。

「生活水準」と「豊かさ」

manuller416.hatenablog.com

 以前、「豊かさ」とは何かについて書いた。要は「豊かさ」と「生活水準」は絶対的な相関関係には無い、生活水準が高いからと言って「豊かである」とは限らない、という話。今回の話はこれに通じる。

 たとえ生活水準の高い社会で暮らしていても、毎日が会社と自宅を往復するだけ、休日の予定もなし、結婚どころか恋愛の経験もない、子どももいない、作れない。それは果たして「豊か」だろうか。そうした人が多い社会は「豊かな社会」と言えるだろうか。

 逆に日本ほど生活水準が高くない、むしろインフラは最低限、道は砂利で水道もなく井戸水や川の水で生活しているような地域でも、朝陽が昇ったら働いて、陽が沈んだら家に帰り、家族で夕食を囲んで食って寝る。それは「豊かな暮らし」とは言えないのか。いや、言える。

 結局のところ、生活水準だけで「豊かさ」を語ることは考えが浅い。国としての豊かさの目安にはなるかも知れないが、それだけで豊かさを論じるには無理がある。では「豊かさ」の本質とは何か。それはムダと、それを許容できる環境にあると私は思う。

若干、内容が先の記事とかぶるが

 今や日本社会においては「ムダを削る」という事が美徳であると考えられている*1が、「豊かさ」とはそうしたムダの中にこそ宿るのではないだろうか。こういう書き方をすると怒られるかも知れないが、芸術は言ってみればムダである。生きるのに絶対的に必要かと言われればそうではない。

 しかし我々は一般的にそうした芸術活動や作品を日常的に楽しむし、それが出来ることが豊かであると感じている。そうした、生きることに必ずしも必要でないものを、それを許容し嗜むことを「豊か」であると感じている。

 裏を返せばそうしたムダを許さない、許容できない、どんどん削らざるを得ない社会からは豊かさが失われていく、とも考えられる。貧困が広がるということ自体が文化的な衰退に繋がる。貧困の中では当然ながら芸術活動になどかまけている余裕は無い。その中では芸術活動やそれにかかる費用は「削るべきムダ」であり、その結果としてそうした文化的な豊かさは下支えを失い、崩壊していく。

 ムダの一例として芸術活動を挙げたが問題はここからで、少子化問題においてはそこに恋愛・結婚・子育てが加わる。今の日本においては、それらが自分の人生から「削るべきムダ」になっている。

 恋愛できるだけの立場に無い、結婚・子育てできるだけの経済力が無い、結婚して子どもを作ってもその子を日本において一般的に通用するレベルの人間に育てられる可能性が低い、自分が子を残してもその先があるとは思えない、日本という国自体に将来性が期待できない。

 そうした予測が出来る中では恋愛も、結婚も、子育てもそれをするためのコストと結果が見合わない、いわばムダと言える。自分が生きていく上では少なくとも若い内は困らないし、子どもを作らないと40歳までに死ぬという訳でもない。むしろ自分の人生だけを豊かにしようと言うのであれば、それらにかかる金銭的・精神的負担は致命的に邪魔とさえ言える。

 しかし長い目で見れば、そうしたライフイベントを「削るべきムダ」として切り捨ててしまうことが個人の、ひいては国の豊かさに繋がる訳がない。そうした流れをどこかで変えない限り、特に経済政策によって変えない限りはこの国に未来は無い。そうした「ムダ」が昔のように当たり前のように受け入れられる社会が戻って来ることを願う。

 まず自民党の政治を終わらせなければ始まらないと思うけどね

 

*1:当然ながら削るべきムダはある。特に税金のムダ