ヤマネコ目線

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いじめられたら自殺が正解か、相手を殺すのが正解か

 中学3年生の生徒が同級生に刺殺された事件で世間がザワついている。しかし、このような事件はいずれは起こり得る事であったし、これまでも形は違えど起こって来た事なのだろう。

最初に

 まずもってどちらも正解ではないと言うのは簡単だ。私の場合はそのどちらも選ばず徹底的に抵抗したので、そういった道もあるにはある。しかしこれはいじめの度合いによるし、いくらいじめを告発しても教師、学校側がまともに取りあってくれなければ子供に出来る事はごく限られて来る。私は不登校にはならなかったが、中には逃げに徹して不登校になる者もいるだろう。自殺や殺人よりはマシな選択かも知れないが、不登校になるのが正解かと言われるとそうも言い難い。

 おそらく最も適切なのは警察に相談することだろうか。それで警察が動いてくれれば良いが、そうでないならまた状況は振り出しに戻る。そもそもいじめの解決の難しさは継続性にもある。一旦は話し合いで解決したかに見えても、またいじめが再発する事は普通にある。

究極の二択

 さて、学校も警察も助けてくれず、かと言って不登校になる勇気もない、親も頼りにならないとなれば、子供には究極の二択が待っている。自殺するか、相手を殺すかだ。そうなった時、どちらを選ぶのが正しいだろうか。

 私はいじめ加害者を殺すのが正解だと思う。これは自己の生存を自己によって守るという点で当然の措置だろう。感情論抜きにしても、自身に不当に害をなす存在を人間は当事者であれ第三者であれ許容すべきでない。

 人間社会には法があり、その法の下では誰もが平等で不当な加害は許されない。そこでは殺人は許されない訳だが、他者の尊厳を踏みにじり、その生命を脅かす人間はある種の殺人をすでに行っているに等しい。そこでいじめ被害者に殺されてもそれは正当防衛の範疇だろう。法律とは社会に生きる人間誰しもが不当な損害を被らないためにあるのであって、いじめ被害者の生存を殺人への抑止力のもとに封じるためにある訳ではない。

 人間、何がなんでも生きることが大事だ。某有名漫画のように、生きるか死ぬかで迷ったらまず生きる方向へバシっとスイッチを切り替えて、そこからどう生きて行くかを考えないといけない。それは当然のことなのだが、世の中それが出来ない人間がそれなりに居る。私はいじめの他にアトピー性皮膚炎と感染症で一時期、死んだ方が楽かなと思った時期もあったが、それでも何とか生きて来て、良い薬も見つけてそれなりに楽しい趣味も見つけて、いわゆる普通の人間にはまだ届かないがそれなりに楽しいものを見つけている。私自身には生きる価値が無くとも、この世界には生きる価値があったのだ。そう考えれば、生きるか死ぬかの選択を迫られればやはりどんな手を使ってでも生きる道を選ぶべきだ。

いじめられた事はいつまでも忘れない

 よくいじめをしていた人間は忘れている、いじめられた人間はその事をいつまでも忘れないと言われる。これは本当にそうで、当人たちはその場の軽いノリでいじめを行う。いじめられた人間はそれに対してやり場のない怒り、悲しみ、憎悪を募らせる。それが何らかの形で発散されるならまだしも、そうでないならば負の感情は心にこびり付いていく。大人になってもそれが消える事はない。時間が経てばそういった感情は薄れはするものだが、しつこい汚れのように本当に取れない部分はいつまでも残り続ける。

 もし私がDEATH NOTEを拾ったら、私をいじめていた人間の名前は某政商や汚い政治家たちの次くらいには書くだろう。