小学生の時から政治に興味を持ち始め、自分なりに様々な事について考えて来た中で、どうしても理解し難いことがあった。それはいわゆる「サヨク」と呼ばれる人々の思考回路。口先では「平和平和」と言いながら、どう考えても日本を軍事的に無力化し、侵略されやすい方向へ持って行こうとしてはばからない。それがどうしても理解できなかった。
「平和」の定義の違い
最近になってようやく理解したのだが、我々(資本主義社会、議会制民主主義を採用する国家の住民で、自由や多様性、幸福の追求を是とする者)とサヨク(おおよそは共産主義者あるいはそれに準じる者、アナーキスト等)とでは、「平和」の定義が違う。
考えてみれば実に簡単な話で、我々が目指す平和とサヨクが目指す平和が全くの別物なので、一口に「平和を求める」と言っても話がまったく噛み合わないのだ。「平和」というものの定義が恐ろしいまでに曖昧であるがゆえに、また我々が考える「平和」が曖昧ながらもある程度の具体性を持つがゆえに、その内容とかけ離れたサヨクの目指す「平和」が理解できない。そのサヨクにとっての「平和」へのプロセスも、理解できないのである。
我々にとっての平和とは何か。個人での認識の違いを言い出すとキリがないとして、大体は
- 現在の体制(資本主義社会、議会制民主主義、自由主義的な社会)のまま
- 国民の自由と安全、財産がおびやかされる事がなく
- 他国の国民のそれらをおびやかす事がなく
- 経済活動を維持あるいは発展させていく
といったものではないだろうか。
まず前提として現在の政治体制あるいは社会の体制の維持はあるだろう。いきなり共産主義になる、いきなり独裁政治になる(現状は一党独裁みたいなもので悲しいが)、何もかも統制された社会になる、といった事を誰が望むだろうか。少なくとも私にとってそれは平和には該当しない。むしろ平和が崩れる前兆、過程、結果のいずれかである。
次の2つは要は「他国と武力を交えた戦闘を行わない」という事。財産にはもちろん領土も含まれる。侵略によって国民の自由と安全、財産が危険に晒される状態はどう考えても「平和」とは言えないだろう。もちろん、他国の国民に対してもそれをしてはいけない。他国を侵略しその国民の自由と安全、財産を奪うことは「平和」ではない。
そういった条件の下で、現在の経済を維持あるいは発展させる事も重要である。経済が破綻すれば当然、混乱が生じる。内乱が起こる。政治体制が崩壊し、その隙に他国が侵略に来るかも知れない。
Wikipediaには「平和(へいわ)は、戦争や暴力で社会が乱れていない状態。」と書かれているが、そのためには上記のような条件が必要であると考える。
サヨクにとっての平和
しかしサヨク(ここでは主に共産主義者とする)にとっての「平和」は違う。彼らにとっての平和はおおよそ下記のようなものだろう。
- 現状の体制を打破し、共産主義、社会主義、無政府主義等に基づいた国家の樹立あるいは日本をそれらに基づいた国家へ従属させる
- その過程・結果でいくら日本人が殺されようが辱められようが、自由を奪われようが財産を奪われようが、それは変化のための致し方ない犠牲でしかない
- その結果として日本という国家が滅亡しようと日本人が絶滅しようと構わない
異論があるならそれはそれで構わない。しかし自分の知る限り、こうでも考えていなければサヨクの思考は説明がつかない。
まずサヨクにとっての「平和」には、前提として現状の体制打破がある。具体的に言うならば日本共産党が、社民党が、れいわ新撰組が政権を握る事によって、日本の政治体制を大きく変える。れいわ新撰組はよく分からないのでどういった方向へ変わるか分からないが、党首の山本太郎は反原発の皮を被った中核派に担ぎ上げられて出て来た元俳優である。どちらかといえば共産主義に属しているかも知れない。共産党はもちろん共産主義、社民党は社会民主主義を目指している党であるので、万が一彼らが政権を握れば、日本の政治は大きく変わる。
それによって何が起こるか。正直何が起こるかは分からないが、少なくとも対米追従から対中追従への転換、属国化。統制社会への転換などろくな事にならないと私は考える(そこで「良い方向へ向かう」と考えるのがサヨクだが)。我々がGHQから与えられ享受している自由、国民主権、幸福の追求は危機に晒され、あるいは失われるだろう。
そういった政治体制の変革、国家の変革の過程あるいは結果で、日本国民がいくら殺されようと構わないと考えるのもまたサヨクである。彼らに言わせればそれは「変化に必要な犠牲」でしかないのだろう。政治の混乱によって内乱が起こりそれによって死者が出ても、飢餓が起きても、統治者による反体制派の虐殺が起きても、それらはサヨクにとっては「理想の政治体制を樹立するために必要な犠牲」でしかない。
日本の政治体制の変革以外には、サヨクにとっての「平和」は中国による支配によって示される。中国共産党は尖閣諸島はもとより沖縄も自国の領土と言って憚らない。もし日本の内部からの政治体制の変化、彼らの言うところの革命が困難である場合には、共産主義に基づいた国家による日本の支配がサヨクにとっての「平和」となる。現在は手を出しやすい場所から手を付けているだけで、もし沖縄が中国に支配されたならば、次は九州で、四国で、北海道で、そして本州で、彼らは「平和を」と叫びだすだろう。
そして中国によって日本全土が支配され日本という国が滅亡し、その中で日本人がウイグル人のような扱いを受けても、サヨクにとってはそれが「平和」なのである。中国共産党の支配の下、日本人女性が強制不妊されても、日本人がまとめて収容所送りにされても、ガス室でまとめて殺されて灰を川に流されても、それがサヨク(主として共産主義者)にとっての「平和」なのである。
結局、彼らにとっての「平和」とは共産主義に基づく理想国家の樹立・維持(そんなものありもできもしない)であり、彼らにとっての「平和」は我々の考えとは到底、相容れないものと言える。
反共は時代遅れか
今日でも大手を振って町中を歩いている共産主義者だが、歴史的に見て彼らは人類に何をもたらしただろうか。バッサリ主観をもって言うならば、彼らがもたらしたモノは破滅と混乱、虐殺である。共産主義という絵に描いたモチ、人間の理性を過信した考えに基づく実現できもしない理想を実現しようとしては、様々な国が興り腐敗し滅亡して行った。そこには往々にして虐殺があり、その対象は主に自国民である。
人間は生物である限り野性を捨てる事は出来ない。理性100%で生きる事など不可能であるし、そもそも肯定されがちな理性、知性といったものが正しいという保証はどこにもない。共産主義はその理性に頼る所が大き過ぎる。人は「無いものねだり」な生き物であり、その性質を理性で100%抑えることは不可能である。共産主義においてはそこで体制の幹部に腐敗が発生する。掲げられた理想は早々に形骸化し、腐敗した政治体制に民衆は苦しみ、政権を批判する自国民への虐殺が行われる。
さて、先日Twitterで「反共なんて時代遅れ」などというツイートを見たが、本当にそうだろうか。むしろ考えてみれば不思議でならない。ソ連、カンボジア、中国(天安門等)で行われた虐殺・非人道的な行為の数々。たまたま戦勝国側である事が多かっただけで、共産主義国家は悪名高いナチスと同類かそれ以上にろくでもないものではないのだろうか。なぜそのような悲劇を生み出してきた主義主張がタブー視されていないのか。我々は自由と多様性を重んじるがあまり、共産主義者にも自由を与えて来た。それは本当に正解だったのだろうか。
今現在、この瞬間も日本は中国共産党によって侵略の危機にある。そういった状況であるからこそ、今こそ我々は認識を改めなければならない。共産主義者は我々の愛する自由と平和にとっての脅威であり、今なおこの世に存在する「絶対に相容れない敵」なのだと。ナチスやISISやオウム真理教と同類の、人類の中のどうしようもない癌なのだと。反共は時代遅れなどではない。彼らが、共産主義者がそう思わせて我々を油断させ、寝首を掻こうとしているのだと。