ヤマネコ目線

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フェミニズムはなぜ失敗するか

 フェミニズムと呼ばれるものがどうにも上手く行っていないように見受けられるが、それは何故かを考えてみる。

ミサンドリーとの習合

 フェミニズムは性差別との戦いといえる。言い換えれば男性中心社会への反抗であり、そこで往々にして男性VS女性という対決構図に陥ってしまう。これがしばしばミサンドリー=男性嫌悪と習合し、女性の社会的地位や権利の向上ではなく男性の価値観ないし男性そのものを否定しよう、という方向へ動いてしまう。

 そうなると男性全体をステレオタイプ化して否定的に扱うことによって対立構造が生まれ、建設的な対話や協力が阻害されて、両性による建設的な対話と協力による互いを尊重したライフスタイルの模索が出来なくなる。男性中心社会において男性の協力が得られないとなれば、当然ながら社会はなかなか変わらない。男性を”敵”として扱うゆえに、彼らが変えたいと望む構造はより強固になってしまう。

 このような流れはフェミニズムに限らず他の政治的な運動にも見られる。運動そのものをストレス発散のために利用しようと余計な人種が流入した結果、あらぬ方向を向いて過激化して大衆から敬遠されてしまう。共感や支持を得るどころか「こんな人たちと関わりたくない」、「関わるだけ無駄」と思われてしまう。やっている当人たちは似たもの同士で集まっているので決して孤立しているとは感じない訳だが、大衆の中で見れば孤立している。社会を変えるほどの大きな動きは生み出せない。

 そこで協力的になれない男性が悪いという意見もあるかも知れないが、女性差別をやり返すがごとく男性的な価値観、男性そのものを否定される状況では協力的になれないのは当然だろう。男性も感情的な面は当然ある。最初は協力的でもあまりに否定的な言動を目にしたゆえ、協力する気を無くすことは当然ありえる。そこで「男なんだから感情的にならず論理的に考えて協力的に振る舞え」と言うのはそれこそ性差別的。

目指す場所の乖離

 フェミニズムフェミニストと一口に言ってもその在り方や目指す所が一様ではない。本来の意味でフェミニズムを推進する純然たるフェミニストもいる一方で、ミサンドリーから転じた似非フェミニストもいる。

 それだけでなく経済的にどのような位置にいるか、どのような女性としての扱い、文化的な扱いを望むかによっても改革のレベルは異なる。こうした目指す場所の違いから内部的に対立が生まれることはどんな運動にもありがちな事だ。一体何をどのように変えていけば社会はより良くなるのか、という理想像に男女間はもちろん、女性の間ですら合意が形成されていない。

 この問題の根底には生物としての本能がある。生存戦略においては従来の男女の在り方が有利であり、それに乗ることが出来る者はあまり変革を望まず、乗れなかった者は変革を強く望む。生き残っていく*1のは前者であるので、従来の在り方を根本から覆すレベルかつ人間の生存戦略に即した、万人に共感を得られる普遍的な生き方を提示できない限り、真の変革は起き得ない。

 こうした新しい生き方へのビジョンの欠如は男性にも言えることだが、女性側で目指す方向性が固まらない以上は議論のしようが無い。ある程度考え方が固まっていても、異なる考え方のグループと互いを尊重することが出来なければそこには分断が生まれる。

女性としての扱われ方を捨てたくない

 女性らしい扱われ方は女性が弱者の立場に甘んじることと引き換えに与えられたものである。弱者から「平等」な関係へのステップアップを目指すのであればそれは捨て去らなければならない。しかしそれはしたくない、女性らしく扱われた上で、弱者ではなく対等な相手として扱われたいという欲求が垣間見えることがある。男性側からすればそれは身勝手であって、「公平」かも知れないが「平等」とは言えない。ゆえに共感も支持も得られない。

 逆に言えば男性も女性に弱者らしさを求めることをやめられないし、身体の構造や出来ることが違う以上は相応の扱いをやめる訳にもいかない。

 もっとも今のZ世代と呼ばれる世代では男女平等の精神が浸透しつつあるようで、今まで男だから、女だからと役割分担してきたことが通用しない例も増えているようだ。力仕事をなぜ女性に頼まないのか。お茶くみをなぜ男性社員がやらないのか、というように。その点では少しずつ進歩があるのかも知れない。良いかどうかは別として。

 創作作品でも昔のマンガ・アニメでは「男が女に手をあげるなんてとんでもない」という感じだった(逆は許されていた)が、最近の作品では男女平等パンチが普及して来ている。先日の記事でも言及したマッシュルでも、主人公が敵対した女性にバックドロップをお見舞いしている。

逆にどうすればうまく行くか

 まずフェミニストミサンドリーを区別して排除することが重要だと思われるが、これがなかなか難しい。他の政治的な運動も同様で一度変質してしまった運動を元に戻すことは難しい。特にミサンドリーなんか無限に湧いて出てくる訳で、それらとフェミニストを区別して議論を進める手間を好き好んでかけられる人間は少ない。

 それが出来た前提で考えてもフェミニズムの実践というのはなかなか難しいものがある。人間という種を持続させていく=出産・育児をする前提で人生設計をする以上、女性を弱者としての立場から開放するのは難しい。少なくとも私はそれを思いつかない。せいぜい人工子宮で妊娠・出産そのものから女性を開放することで、それらにかかるコストを男女で分担する程度。現時点では現実的ではない。

 人工子宮が実現して広く普及すればまた新たな社会の在り方も見えてくるのだろうが、それは当分先のことだろう。別の問題も出てくることは容易に予想できる。

余談:似非フェミニストはなぜ生まれるか

 個人的な偏見だが、これは非モテ女性がフェミニズムの思想に触れて変質するから。恋愛面で女性としての価値が認められないという現実を受け入れられず、そのストレスを「悪いのは私に価値があると認めない男性的な価値観である」という方向へ転換し、そこにフェミニズムの男性社会への挑戦、男性的な価値観の否定が合致して無自覚にミサンドリー化する。

 なので彼らは男性を過度にステレオタイプ化した上でその価値観を否定するし、マンガであれアニメであれマスコットであれ、「女性らしさ」に関する表現=自分たちと相反する価値観の象徴を異常なまでに敵視する。本質は女性の社会的地位向上や性差別の解消ではなく、言ってしまえばあてつけに過ぎない。

 そして男性に対する見方は変わらないので、男性が男性らしく描かれることや男性に男性らしさを求めることは何ら見直そうとしない。女性として尊重されない事へのあてつけなので、目障りな性描写以外の女性らしい扱いに対して目くじらを立てることもあまり無い。

 皮肉なことに、彼らが救われるためには恋愛において彼らの価値を認めてくれる相手を見つけることなのだろうと思う。なお、これはミソジニーに関しても同様である。

 男性の場合、恋愛面で無価値だからとミソジニーに走る例はそこまで多くないように思うがこれは単純に言い出しづらいのと、男の方が子供の頃から雑に扱われること、我慢するのが当然とされる上に他に夢中になれるものを見つけやすいからではないだろうか。フェミニズムのように女性的な価値観を否定するための口実も無い。言い出さないだけで実はミソジニーミサンドリーも同程度いそうな気はするが、大義名分があるかどうかは大きい。

 私は非モテ男性だが、女性の価値観を変えようなどとは思わない。無価値な人間は無価値であること受け入れて、その上で先に進むしか無い。価値の無いものを無理に受け入れさせることは不可能だ。

 

*1:子孫を残す