ヤマネコ目線

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縄文時代は戦争が無かった?

 一部右翼の間で「縄文時代は戦争の痕跡が無い。だから日本人は古来より争いを好まない性質を持っている」、などという過去を美化する謎論理が展開されているらしいのでネタにする。陰謀論とかそういう類のレベルなのであんまり絡まない方が良いのかも知れない。

そもそも縄文時代ってどんな時代?

 軽く歴史の授業のおさらいをしておくと、縄目(なわめ、縄を巻き付けたような跡) がついた土器が出土するような時代。世界的な歴史水準で言うと「新石器時代」となる。縄文時代の土器ならば全ての土器に縄目が付いている訳ではない。文化レベルとしては磨製石器や土器の使用、定住化の始まりと竪穴式住居、貝塚など。具体的な年数で言えば紀元前14,000年頃~前3, 5世紀前とされる。年数に直せば約16,000年前~4,300年前と結構な幅がある。

縄文時代は戦争が無かったのか

 まず約4,300年くらい前の日本列島において「争いは無かった」などと、一体誰が何の根拠で言えるのか。考古学的に見れば戦争があった証拠が無いというが、考古学にも限界がある。数少ない出土品から4,000年も前の情勢を正確に把握することは不可能である。そこで戦争が無かっただのと断言するのはもはやギャグでしかない。というかネタか?「ネタにマジレス」してしまっているのか私は。でも言いかねないからな・・・”彼ら”。数年前の国会議員の不祥事すら覚えてられない癖に。

 ここで100歩譲って「縄文時代には戦争らしい戦争は無かった」としよう。それは何故か。生活水準としてはまだまだ狩猟や木の実の採集をして暮らしている時代であり、稲作が伝わったのも縄文時代の後半(約3,000年前)とされる。本格的に水田での稲作が始まるのは弥生時代からで戦争するも何も人口がそこまで増える要素が無い、「人間同士で争う余裕があまり無かった」だけではないか。

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 なお、栃木県埋蔵文化財センターのQ&Aには「食べ物の争いはなかったの?」というものがある。回答は「多分・・・あったと思います」。根拠としてはニホンザルでも食料源確保のために縄張り争いをすること、その後の弥生時代に戦争があったことを示唆する出土品が格段に増加することを挙げている。

 何にせよ、縄文時代の人々は協力してその日を生きて行くので精一杯だっただろう。農業が本格化する前となればまさに”その日暮らし”。「縄文人は争いをした形跡が見られない」ということが事実として、それを「日本人は古来より平和的な性質である」という言説と結びつけるのはあまりに安直であり、考慮すべき要素を乱暴に排除し過ぎている。

弥生時代には銅剣などが出土する

 たとえ縄文時代に戦争が無かったとしても、すぐ後の弥生時代では青銅で出来た剣がしっかり出土する。戦闘用のものは朝鮮半島からの輸入品とされるが、それを使用する集団がいた事実に変わりは無い。儀式用と思われるが国産の剣もあるとか。大体、「平和的民族」を主張するために縄文時代なんて紀元前の話を持ち出すくらいなら、江戸時代の長い安定期を論拠とした方がまだ説得力があると言える。

 何にせよ縄文時代よりも後の時代では武士の出現、戦国時代、戊辰戦争、太平洋戦争とあらゆる時代で内乱やら外へ向けての戦争やらをして来た訳で、それらの歴史をまったく無視して今さら大昔の、それも紀元前の日本人の気質がどうのと言われてもお笑いでしかない。

人はなぜ陰謀論やバカげた理論にハマるのか

 陰謀論やトンデモ理論にハマる人間は自分自身の無知や思慮の浅さを自覚しておらず、そのくせムダにプライドは高く謙虚に学ぶ姿勢に欠け、そのままでは解釈できないレベルの物事をなんとか理解しようとしている。物事を正しく理解しよう、謙虚に学ぼうという姿勢が欠如しており、それを改めないままに少ない知識と単純な思考回路で物事を解釈できるから陰謀論やトンデモ理論に傾倒してしまう。

 プライドの高さは間違いを指摘された時、自分自身の主張を見直そうとはせずに相手を無知認定するという点によく現れている。不勉強で主張に根拠が欠けているので、根拠をもって間違いを指摘した相手に対しても反論に足るだけの根拠を持ち出すことが出来ず、ただ「無知め」と言うことしか出来ない。

 その無様な実態を「相手が無知過ぎて私が相手をしてやるまでもない。自分で調べれば分かるだろ」、というムダに高いプライドゆえの論理で防衛するのでますます救いようが無い。逆に自分の考え、見解を見直すということは「自分は無知で思慮が浅かった」ということを認めることであり、それをプライドが許さないので誤りを指摘されてもむしろ誤った考えや見解を改めず、補強しようとさえする。

 人は信じたいものしか信じない。「自らが無知で視野が狭いにも関わらずプライドだけは高い」ことは”信じたく無い”、「今、自分自身が持っている知識の範囲内で物事を解釈できる論理」と、「物事を適切に解釈できる自分像」は”信じたい”。なので今回取り上げたような明らかに無理がある、物事を単純化し過ぎた論理を信じてしまう、提唱してしまう。それに基づいて行動してしまう。

 別に無知で思慮が浅くたって良いではないか。それを認めたって良いじゃないか。それを認めたからと言って誰かに咎められる訳ではない。無知で思慮が浅いことが罪であるならば、子供はみな罪人である。否、私も含め世の大半の人間は罪人である。政治家連中なんか歳だけ食って揃いも揃って道理の分かっていない人間ばっかりだ。むしろ自分自身が無知で思慮の浅い人間であると認めない事こそが罪ではないか。

 必要なことは無知で思慮が浅いことを自覚し、それを前提としてあらゆる物事に対して継続的に知ろうと努め、理解を深め、考えていくことだろう。今ならChatGPTという優れたディベート相手がいるので、生身の人間相手でなくとも誰しもがその流れを気をつかわずに実行できる。SoftBank孫社長は毎日ChatGPT相手に議論しているらしいが、その辺は感心する。もっとも、無知な人間は優れた道具が使える環境にあってもその使い方すら無知ゆえに分からないままなのだが・・・だから国会答弁作らせたりする訳で。嘆かわしい。

 時にソクラテスの「無知は罪」という言葉がある。多くは単純に「物事を知らない人間がそれゆえに問題を起こすことが悪い」といった意味で使われるが、「無知の知からして「無知(=自分が無知であることを自覚しないこと)が罪」であるとも解釈できれば、「無知(=正しい考えや倫理、道徳観念を持たないこと)が多くの問題を引き起こすから罪深い」、とも解釈できる。この言葉1つ取っても、なかなか謙虚に調べなければと思わされる。都合よく使ってしまいがちだがそれこそ無知かも知れない。

 なお、ソクラテスの言葉は「無知は罪なり、知は空虚なり、英知を持つもの英雄なり」と続くとされる。本意をすべて理解するためには、ソクラテス並の無知の知と哲学的な視野が必要かも知れない。紀元前の哲学者なので、その正確な意図など今さら知るよしも無いのだが。

 戒めとしなければ。