ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

イオンシネマと車椅子

 数日前、X (旧Twitter)で車椅子の人に対する配慮がどうのと荒れていた。「普段は車椅子の人なんか欠片も関係無いし興味もないのにこういう話題には首を突っ込む健常者が一番怖い」なんて意見もあったが、完全に無関係でもない以上は議論に首を突っ込む余地はあるだろう。それとも無関心のままでいれば良いか。

 ちなみに来月1日から合理的配慮の提供が義務化される。

リーフレット「令和6年4月1日から合理的配慮の提供が義務化されます!」 - 内閣府

 そもそもの発端は車椅子インフルエンサーとして活動する人がイオンシネマを事前通告なく訪れ、介助に関する資格のないスタッフに劇場内の階段移動の手伝いをさせたことに始まる。それによってスタッフから「今後は別の映画館に」と言われ、それに関して投稿したことから燃え始めた。

www.huffingtonpost.jp

 今年4月から合理的配慮の義務が発生するとはいえ、リンクを貼ったリーフレットによれば「過重な負担」はこの範囲に入らない。ネットでは無資格の映画館スタッフが車椅子ごと人を抱えて階段を移動させることは「過重な負担」ではないか、というのも論点になった。この「過重」かどうかの判断目安は以下のように記載されている。

合理的配慮の義務 リーフレットより

 また、当の車椅子インフルエンサーが基本的に事前の通告なく車椅子であらゆるサービスを利用したい、それが出来るように社会が変わって欲しいとの投稿したために炎上に拍車をかけた。社会が変わること、それを望むことは決して悪い事ではないがどうにも言い方もタイミングも悪い。

配慮は「当たり前」ではない

 以前から何度か書いているが、身体障害者に限らずマイノリティの尊重のためにはマジョリティの合意が必要である。何故か。数による力関係は揺るがないから。配慮も尊重も当たり前では無い。でなければ義務化などとは言い出さないだろう。

 いくら政府が「今年4月から合理的配慮の提供が義務化されます」と言っても、双方のコミュニケーションが不足して配慮を提供する側にむしろ反感を与えるようであればしかるべき配慮は円滑には提供されない。配慮が必要であることやそれが義務化されることを笠に着て横柄な態度を取れば、健常者・障害者に関係なく相手の協力を取り付けることは困難になる。

 また、合理的配慮の提供の義務はそれに反したからと言って罰則は無い。マイノリティに対する配慮、尊重を提供することが望ましいとされる昨今だが、それはあくまでマジョリティからの善意で成り立っていることを忘れてはならない。物理的、人員的あるいは財源的に不可能なものは不可能。

 今回の場合であればイオンシネマスタッフの「今後は別の映画館に行ってくれ」発言は確かに不適切だろうが、介護要員では無いスタッフに車椅子ごと抱えさせて階段を移動するのは一般的に見れば過重な負担ではないか。映画館側には今後、車椅子が昇降しやすいよう階段の一部にスロープを付けるなり板を用意するなりの対策は必要だろう。どちらが悪いと言うよりは双方に事前準備が必要だったと言えるのではないか。

社会を変えることの難しさ

 身体障害者の一部が強行的な行動に出ることも理解できなくは無い。善意に任せるだけでは人間も社会もなかなか変わらないからだ。多くの場合は変化を嫌う。マジョリティ=健常者に合わせた制度や設備の設計は日常であり、それを多少なりとも手間と費用をかけて変えることには抵抗が生まれる。

 「事前通告無しにいきなり車椅子で入店を試みる」という人の思考としては、あえて相手を困らせることで相手側の受入体制を変えようというところがあるのだろう。誰が言ったか「迷惑にならないと社会は変わらない」。しかし、これには彼らが見落としている問題点がある。彼らがマイノリティ、少数派であるという事だ。

 困らせる、苦しませることで相手を変えようというのは思っているよりも簡単なことではない。ブラック企業で働く人間がズルズルと厳しい労働環境で働き続けてしまうのが良い例だ。端から見れば明らかにどうにかするべき厳しい状況でも人間はなかなか変われない。多少の不便さや不快感では人間が作る社会も、制度も、設備も変われない。

 特にマイノリティが「相手を困らせてやろう」と思ったところで、マイノリティゆえにその「迷惑度合い」は大きくない。マジョリティ側からすればごくたまに来る面倒くさい相手のために根本的な部分を見直す必要性は感じないし、むしろ相手に非があると見なせば「自分たちは悪くないので何も見直す必要は無い」とさえ思うだろう。今回のように問題を大事にされれば当のスタッフは内心、障害者に敵意さえ抱き得る。

 インフルエンサーとしての活動は「迷惑度合い」を最大化させ社会に広く問題を周知させることが目的なのだろうが、下手をすれば反感も同時に広がってしまうことも注意すべきだ。便利ではあるものの、SNSで下手な投稿をするのがまず良くない。イオンシネマ側は謝罪している訳で、今回の話はまずイオンシネマのしかるべき窓口に相談して解決すれば済んだ話。その顛末を投稿するのは問題が解決した後で良い。最初からSNSに晒し上げる必要性は無い。

 今、日本人に精神的余裕を求めることは難しくなっており、むしろ誰しも日頃の鬱憤から叩ける者は叩いてストレス発散に利用したいと考えている。先日も神戸大学のサークルが馬鹿をやって問題になったがXでは退学処分を求める声が多かった。適正な処分の程度はともかく、中世ヨーロッパで庶民が処刑を娯楽にするような状況になっている。そんな荒んだ精神性の人々に投稿内容に対する好意的解釈やそれによる自省を求めることは難しいのではないか。

 有名な絵画にペンキをかける環境活動家などにも言えるが、人の感情に訴えかけて社会を変えようとするならば感情がどのように動き、作用するかを正確にシミュレートしなければならない。それは簡単な話ではないし、何らかの目的をもって活動する集団においては物事の見方に偏りが出てそれがより一層難しくなる。そして大抵は浅はかな想定をして失敗する。

対話と議論の必要性

 マイノリティに必要なことは相手を困らせて何かを変えさせようという配慮の押し付けではなく、マジョリティから配慮を円滑に引き出すための対話といえる。「相手の意見や感情を無視したり尊重しない」というこれまでマジョリティがマイノリティに対して行ってきたことと同じことをしても生まれるのは対立だけ

 建設的な議論が出来るかどうか、と言う点ではこれは何もマイノリティとマジョリティだけの話では無いかも知れない。日本人は議論が出来ないというか、「和を以て貴しとなす」の精神か何か知らないがとにかく異を唱える者を嫌い、お互いの意見をぶつけ合うことを嫌う。何ならマジョリティ側の(と思われる)意見に乗ってしまえば何も考える必要が無いとさえ思っている。

 自分の意見と自分自身を切り離して考えることが苦手であり、自分の意見を否定されること=自分自身を否定されることと捉えがち。帰属意識が強く特定の思想を持つ仲間同士で固まって柔軟な議論をますます困難にする。ゆえに議論をする、議論をさせたい場合はそれなりに慎重にならなければならない。

 このあたりはもはや地道に子供時代の教育から変えていくしかないかも知れない。実際、ディベートなんかをやって育ってきているのが今の子たちなので、議論できる出来ないで言えば今の10代の方が大人より上か。揚げ足取りで相手を言いくるめて面白がるいわゆる「論破」に囚われている人間は別だが。

 私自身も出来るだけ自分の考えに柔軟性を持とうと思ってはいるが、一度自分自身で考えて固めてしまった思考を変えることには抵抗もある。議論をしても相手と平行線に終わることも多い。健常者の中でも物事に対する見方は多様であり、議論による意見のすり合わせを省略して変えられるほど世の中は甘くないだろう。

 そういう時もChatGPTは役に立つ。何せ相手に遠慮する必要は無いし納得するまで付き合ってくれる。意見が合わなかったからと機嫌が悪くなったり避けられたり付き合いが無くなったりもしない。