ヤマネコ目線

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テロで社会は変えられるか

※変えられません。今回の犯行を称賛している人達に向けて。

 岸田総理の演説の際、爆破テロ未遂が発生した。

mainichi.jp

どう受け止めるべきか

 昨年の安倍元総理銃撃に続いて、現職の総理大臣を狙った爆破テロ未遂が起きたことを、我々はどう受け止めるべきか。それを書きたかったので先に書く。

 犯人が黙秘を続けているのでその目的などは分からないが、こうして立て続けに暴力に訴える人間が出て来た事実は重い。特に、氷河期世代からその下の世代にやり場の無い社会への鬱憤が蓄積されているのだと私は思う。

 選挙という正当かつ平和的な手法では政治を変えられない、いかに現在の政治に不満があろうとも、世代別人口においてどうしても現役世代の意見は政治に反映されづらい。そうしている内にこの国はみるみる衰退し、少子化も止まるどころか加速する気配を感じる。その中でどうやって政治を変えていくかを我々は現に見いだせていない。

 そうして蓄積される一方のルサンチマンを発散できない限り、政治に反映できない限り、そこで溜まった不満はいつか何かしらの形で爆発する。それも最悪の形で起こり得る。今回の事件はそうした状況がごく僅かに表面化したに過ぎないのではないか。

 いかなる理由があれ暴力は許されない、それは当然のこと。一方でこの日本で元総理が暗殺されたり、爆破テロ未遂が起きるような政治をして来たのはどこの誰か。それを支持し続けて来たのはどこの誰か。それをよくよく考える必要がある。決して他人事ではない、決して「ただ単に頭のおかしい奴が暴れただけ」では済まない。

 テロリストの主張にそって政治を変える必要はない、しかしこの国における政治の在り方、主権者たる国民の政治参加の在り方を見直すべき時期が来ているのではと思う。いい加減、自民党にばかり任せていてもろくな事にはならないので。

テロは変えたい方向への道を閉ざす

 山上容疑者の犯行によって旧統一教会問題が取り上げられた事で、同様のことをすれば政治や社会を変えられると思う人間がいるかも知れない。しかし、旧統一教会問題は例外中の例外と考えるべきである。

 そも山上容疑者の本懐は旧統一教会への復讐であった。そのためにまず教団幹部を狙っており、タイミングや警備の問題から断念している。そこで統一教会と関係があり、なおかつ一番名の知れた安倍元総理を標的にした訳だが、結局のところ山上容疑者の目的に「テロによって政治を変えること」は含まれていない。少なくとも主目的ではない。なので旧統一教会問題を問題として扱うことは「テロに屈する」ことに該当しない。

 加えて保守からの支持が厚く、実に10年以上の長期政権を担った馴染み深い元総理大臣が韓国発祥カルトと通じ、政治的な影響力を与えていた事実は暗殺と同等、あるいはそれ以上に衝撃的であった。それは社会、政治を動かすのに十分な衝撃であったし、それによって実際に政治家が弁明に追われている。

 自称保守の間ではカルトと関わることを軽視するような言説が見受けられるが、そうした団体と関わることを甘く見る事には賛同できない。カルトは多くの人生を狂わせてきた団体であり、それらを擁護することはテロ・暴力を擁護することと同等の愚行である。そうした事を自覚せず、選挙のために旧統一教会と関わったことがまず何よりの間違い。安倍元総理暗殺に関しては厳しい事をいうが、「身から出た錆」。

 旧統一教会問題はそうした要因があったから問題となった訳であってある種、例外中の例外。安易な暴力、テロは社会を変えるどころか、その変えたい方向への道を閉ざしてしまう可能性が高い。暴力やテロによって政治が変わればそれは紛れもない”悪しき前例”となる。気に入らないことがあれば何でも暴力に訴えることで解決しようとする人間が出てくる・増える。平和的な解決を追求することが蔑ろにされ得る。それが「テロに屈する」という言葉の意味するところ。

 なので為政者はあえてテロリストの意向を無視する方向で話を進めるし、善良で問題の平和的な解決を望む一般市民もそれに従う。暴力の連鎖を生まないために。また、政治家はテロを起こされたからと言って自分の政治の在り方を見直すことは無い。なぜこんな事件が日本で起こるのかを考え、今までの、これからの政治を見直すことが出来るほど彼らは思慮深く無い。それが出来るならばそもそもこんな事件は起こっていない。

 今回の事件で岸田総理は予定されていた行事への出席を続け、テレビでは事件に負けずに演説を続ける岸田総理の姿が放送された。そこで人々が目にしたのは「テロの恐怖に屈しない勇敢な指導者」としての岸田総理の姿である。いかなる意図があろうと、むしろ自民党に対する選挙応援にしかなっていないのではないか。

民主主義の根幹

 よく「民主主義の根幹を揺るがす」、「民主主義への挑戦」といった言葉を聞くが、そういう彼らは民主主義の根幹の何たるかを理解しているのだろうか。最近フランスでは年金改革が原因の暴動が起きているが、そこから垣間見えるように民主主義は暴力と紙一重の場所にある。

 民主主義は単なる選挙まわりのシステムの話ではない。その根幹は主権者たる国民が形を問わず、その主権を行使しようという部分である。そこに暴力が含まれるかと言われれば「含まれ得る」。しかして直結はしないし、安易な正当化は先に述べたようにろくな結果を生まない。基本的には非暴力による運動をすべき。

 ぶっちゃけた話、日本人はもっと暴動なり何なり起こしても良いのではとも思うが。何も誰かを殺したりしなくてもいい、ただ全員で抗議の行進をしたり、国会前に詰め寄るだけでいい。そうした行動がいわゆるサヨクのものになってしまっているのが残念でならない。大人しいにもほどがある。逆にそれが怖い。普段怒らない人間が怒ったときが一番怖いように、不満は溜め込むのではなく適度に発散するのが良いのではないか。