ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

外国人生活保護について

 Twitter日系ブラジル人女性が生活保護に関する虚偽の説明をされて受給を拒絶され、そこから一転して受給決定がされたことが話題であった。それに関して。

news.yahoo.co.jp

永住者・定住者ならば受給資格はある

 Twitterでは「外国人に対する生活保護」という側面だけが注目され、それに対する批判的な意見が多く見られた。しかし外国人でも永住者あるいは定住者であれば生活保護の対象であるし、このニュースで一番悪いのは虚偽の、それも脅しも含んだような内容の情報を教え、自身の職務を放棄して「国に帰れば良い」などと言ってのけた安城市役所の職員である。

 「無免許運転で逮捕された」というのはこの女性ではなくその夫であり、そもそも生活保護受給の可否とそれは本質的には無関係。「犯罪者は国に帰れ」と言っている人間はまず日本語の読解力をつけるべき。

 なお、興味深いことに「外国人であっても永住者/定住者であれば生活保護の対象となる」との答弁書閣議決定したのは安倍晋三内閣*1。外国人が大嫌いで何かとヘイト誘導しようとする、あるいはそれに乗せられる右翼の大好きな安倍晋三元総理大臣の下で、そうした決定がなされていた訳だ。それでも彼らは安倍派の政治家を支持し続けるのだろうが。

外国人に対する生活保護の是非

 「日本に来てすぐに外国籍のまま生活保護申請を受給すること」は認められるべきではないと思う。*2こういう事を最初に書いておかないとすぐ揚げ足取りが湧くので最初に書いておく。中には日本人でさえ生活保護を拒否され、追い返される人がいる中で外国人に対する生活保護を出すという事に抵抗がある、という気持ちも十分に理解できる。2007年には生活保護を打ち切られたタクシー運転手の男性が餓死した事件があった。

 しかしながら、外国人であっても定住者あるいは永住者となった者に関しては、感情論はひとまず置いてその権利を認めざるを得ない面はあるだろう。現状、定住者/永住者となる条件はそこまで甘いものではない。定住者の条件はざっくり書けば(参考)

  • 日本人との間に子供のいる外国人
  • 日本人と結婚して配偶者としての在留資格を得たが、その後離婚あるいは死別して在留期間の更新が難しい外国人
  • 難民等
  • 連れ子/連れ親
  • 特別養子の離縁者
  • 棄児

 難民に関しては本来は難民申請の範疇であり、定住者として認められるかはケース・バイ・ケース。連れ子/連れ親も無条件で認められる訳はなく、その下2つも同様に厳しい。永住者に関しては(参考)を見た方が早いので割愛するが、いずれも極端に甘い条件という訳でもない。

 そうして日本に在留し、時として就労し収入なりの納税もしている以上、外国人であっても人間である以上、彼らの権利をいつまでも何1つ認めないと言うのはこの国の在り方として無理がある。特に生活保護法は生存権に基づいた法律・制度であり、外国籍のままであっても人間の生存の権利を認めないというのは難しい。就労もその意思も一切なく、入国直後から生活保護を申請というような者であれば確かに「国に帰れ」と言いたくなるが、そうでない場合は外国人というだけで人権を軽視する姿勢は認められない。

反発の根底

 一部の人間からは「外国人と日本人を決定的に隔てよう」という意思、ある種の選民思想さえ感じられるが、彼らが支持している自民党少子化を加速させて日本人をどんどん減らし、代わりに技能実習だ特定技能だと外国人を入れ、「留学生は日本の宝」だとか抜かし、「海外の優秀な人材を確保しよう」などと言っている以上、これからも国内に彼らの大嫌いな外国人は増え続ける。長期的に在留して永住者あるいは定住者となる外国人も増え続ける。母数が増えるということは当然、生活保護を受ける人数も増えて来る。それでも彼らは自民党を支持し続けると思われるが、一体どこまで行けば気づくのだろうか。自民党が彼らの言う「売国奴」と何ら変わりないことに。

 中身も軸も考える力もなく日本人というアイデンティティに縋りつき、外国人やLGBTといった者に対するヘイトを露わにすることでしか自尊心を満たせないのなら、悲しいことである。それでは視野も考えも狭すぎる。

 悪いのは外国人ではなく、日本人を減らして外国人をどんどん入れている政府与党ではないか。外国人実習生(特にベトナム人)だって最初から犯罪をしようとこの国に来ている訳ではない。お金を稼ぎたいから来ているのに、この国の労働環境があまりに待遇も悪くお金も稼げないから犯罪に走る者が多いのではないか。この国の社会がどうしようもなく歪んでしまっているから、あらゆる所でいびつな事象が発生しているのではないか。その元凶をどうにかして行かなければ何も変わらない。

外国人参政権について

 私はこれを認めるべきではないとずっと考えているが、先に述べたように日本に入ってくる外国人の数が増えるほど、在留期間が長くなるほどそれを認めないことは難しくなるだろう。今はまだ難しくともこれから今のままのペースで日本人が減り続ける一方、安い労働力として外国人を入れ続け、外国人の在留期間が長くなればなるほど、生活保護同様に彼らの権利を認めざるを得なくなる。それが「今すぐ認めるべき」という一部政党の意見は極端にしても、今のままの政治でもいずれは認めざるを得なくなる。

 特に在留期間だけでなくその数が増えて来ている点は重要で、日本人の数がどんどん減る一方、技能実習生だけでもその数はかなりのペースで増えている。日本にずっと居る、日本人と結婚するという人間も増えている。というか私自身がそういう実例を知っている。

 と言うことは、まだまだ時間はかかるだろうがいずれこの国の人口の半数が外国人(あるいはその子ども)となっても何ら不思議ではない。今の若年層は男女とも貧しいので、国際結婚も増えるだろう。一部の人間が大好きな純日本人は減っていく一方になる。大げさと思われるかも知れないが、先を見据えるとすればそうしたレベルまで考えなければならない。特に何事も転がり落ちる時はあっという間。

 そこでどこまで外国人の参政権を認めないことが許されるだろうか。外国籍のままでは不可能としても(私としてもそこは揺るがないで欲しい)、外国人の政治に対する発言力は強くなる。それは何も投票権、被選挙権という形にとらわれない。日本人はあまり意識しないが、民主主義というのは人民みずからがあらゆる形で社会を動かすという事である。デモでも不買運動でも何でも、社会を変えたければ国民自身が動かなければならない。その国民の半数あるいはそれ以上が外国人になったら?

 どこまでを「国民」と認めるかという話は置いて、国の人口を占める割合で外国人の数が増えれば増えるほど、その意思も比例して大きくなる。特に外国人は日本人ほどの遠慮深さ、帝國臣民らしい我慢強さも持ち合わせていない。日本人が本来主張するべき権利を主張しないのに対し、彼らはキッチリ主張すべき権利を主張して来る。そのための行動もしっかりする。そうなれば誰が彼らを止められると言うのか。特に社会の根底*3外国人労働者にどんどん置き換えているこの国が、いざ彼らが動いた時にどういった理屈をもって彼らを無視できるのか。いいや、できない。

結局、日本人としては何をすれば良いのか

 このままでは少子化という面でも、外国人が増えすぎるという面でも日本というアイデンティティは滅んでいく。それを止めるには我々国民がここ数十年成果をあげられていない自民党をクビにし、少しずつでも過去のトラウマを克服しながら政治を変えていくしかない。もっと経済というエンジンを回し、社会に経済的な豊かさをもたらさなければ待っているのはゆるやかな死である。

 前々から書いているがいよいよコロナも一段落、これから経済を回そうという時に、それも物価高騰で庶民が苦しんでいる中でたとえ防衛のためであっても増税の話が出るような政府は最悪。お話にならない。外国人うんぬん以前にまずもって政府与党が一番の「国民の敵」。それを倒すことから始めるべきだろう。

消去法で自民党しか選択肢がない?それで選んで来た結果がこれだよ

 

*1:記事中段参照

*2:難民などの特別な事情は除く

*3:第一次産業など

Fate/Zeroのサントラを買った

 AmazonでアニメFate/ZeroOST(オリジナル・サウンド・トラック)がデジタルで買えるようになっていたので購入。Fate/Zero自体が約10年前のアニメなので、CD版を買ってもちゃんと読み込めるか心配だった(10年くらいなら十分読み込めるとは思うが)。デジタルミュージックなのでアルバムから好きな曲だけ選んで1曲単位で買うことも出来る(ダウンロードする時に変なエラーが出てイラついた勢いで私はアルバムごと買ったが)。

おすすめの曲

Point Zero

 トラック1。記憶が正しければFate/Zeroの第1話「英霊召喚」の最後あたりで使用されていた曲。第1話の曲とは思えないほどやたらと壮大でもはやちょっとしたクライマックス。「これから何か凄いことが始まる」感が凄い。Fate/Zeroは1話1話が濃い感じがする。

let the stars fall down

 トラック2。ディスク1に収録されているが本編ではあまり聴いた覚えがない*1が、エンディングテーマ「満天」のアレンジ曲であり儚げながらも華やかな曲。コーラスも入っている。華があるからか希にテレビで何かのBGMとして使われる場合もある。

 「満天」はOSTを担当する梶浦由記氏が作詞作曲した歌で歌唱はKalafina。そちらもオススメ。本編の使い所がなかなかにズルい。

fate to zero

 Point Zeroと似ているが若干違う。コンセプトは同じような感じ。

dogfight

 [ ネタバレ防止 ][ ネタバレ防止 ]が空中戦をする際のBGM。だったと思う。疾走感に加えて英霊(=超人みたいなもの)同士の戦闘のスケールを感じさせる。

 dogfight #2も同様。別のシーンを挟んでの続き。

the sword of promised victory ~Fate/Zero ver.~

 シリーズおなじみの「約束された勝利の剣」が使用される時のBGM。これもある種のクライマックス用BGM。コーラスが入っており神秘性、英雄らしさを感じさせる。アルバムの中でも一番評価の高い曲(Amazonデジタルミュージックの画面で見る限り)。

Babylonia

 約束された勝利の剣の次に一転変わってエキゾチックな曲が収録されている。バビロニアは現在のイラク南部にある地域であり、世界最古の文明発祥の地、もっとも古い時代から農耕が行われて来た地とされる。

silver moon

 Fate/Zeroラストの曲。途中でKalafinaによるコーラスが入る。同ユニットの曲「to the beginning」の最初のコーラスと同じフレーズで、なおかつ本編シーンに合わせて天から降って来るような印象のコーラスがとても良い。とはいえ本編未視聴では響かないかも知れない。視聴済ならラストが思い出されてとても良いと思う。あのエンディングへの入り方はもはや映画。

トラック57以降のライブアレンジ

 数曲だがトラック57以降にはLive Arrange ver.が収録されている。前述した曲のLive Arrange ver.も良いし、その他の曲もなかなか。むしろライブ音源版の方が良く感じる曲さえある。

その他

 Fate/Zero関連の楽曲は下記の通り。

 有名なのは「oath sign」と「to the beginning」あたりか。「to the beginning」のイントロがSAOの曲と似ているという人がいるが、作曲者が同じ梶浦由記氏なので何も不思議ではない。

 「Point Zero」や「to the beginning」といった曲名はFate/Zero自体が前日譚に当たるから。Fateの始まりは「Fate/stay night」であり、そこで繰り広げられるのは第聖杯戦争Fate/Zeroはその1つ前の第4次聖杯戦争を描く。それもただ1つ前の戦争という訳ではなく、ちゃんとラストがstay nightへと繋がって行く。

 ちなみにFate/ZeroFateシリーズの中でも硬派な部類(恋愛要素がほとんど存在しない)であり、そういう要素が苦手な人でも楽しめる。むしろかっこいい親父が出てくる感じで、Zeroを境に女性ファンが増えたそうな。

*1:第2期のそれもごく短いシーンに使われただけのような気がする

時事ネタ

備忘録代わり。

財務省ひき逃げで減給処分

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 財務省の職員が仕事をさぼって(4時間15分にわたって欠勤)飲食店に行き、その駐車場から出る際に自転車と接触して怪我をさせ、そのまま逃げた事件。略式起訴で罰金命令を受けている。死者こそ無かったものの、これに対する懲戒処分は減給10分の2を2ヶ月。これは果たして妥当な処分と言えるのか。軽いのではないか。

 最近思うが、たとえ政権交代が実現しても財務省のような悪辣な組織が強い影響力を発揮し続ける限り、日本はゆるやかな死に向かい続けるのかも知れない。政治家がその本分を忘れ、無知蒙昧で無思慮な操り人形と化し、選挙で選ばれた訳でもない役人が実権を握っている限りはいつまでも政治は良くならない。

防衛増税「賢明な日本国民は必ず理解してくれる」

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 自民党、甘利幹事長は防衛費増額のための増税について述べ、最後に「賢明な日本国民は必ず理解して頂けると思います」と締めた。確かに中国の脅威は増大する一方であり、それに対応するために防衛費を増額する必要性はある程度理解できる。

 しかしその手法は増税ありき、額についてもとりあえずGDPの2%程度までという枠ありきで話が進んでおり、そこに丁寧な説明や聞く力といった言葉にふさわしい対応は無い。増税をいつするかという議論は先送りされたが、それは次の衆院選に勝ってから増税しようという目論見でしかないのだろう。

 私は右寄りな自覚はある方だが、それでもようやくコロナ禍から経済が立ち直ろう、皆で経済を回そうというこれからに、いくら防衛のためとはいえ増税を言い出す神経が理解できない。防衛のためと言っておけば国民は納得する、そうした甘い考えが透けて見えるし、無駄な歳出を削って何とか国民の負担を抑えようという気概もまったく以て感じられない。むしろ復興税を流用し、被災地復興を阻害すらしようとしている。財務省は復興税の流用で復興予算への影響は無いなどと抜かすが、本来使われるべきだった財源が無くなって何が影響が無いと言うのか。ではその分の補填はどこからされると言うのか。お金はあるだけしか使えない、無い袖は振れない、そんなことは小学生でも分かる。舐められたものである。

 そもそも政府はやたらにミサイル防衛だ敵基地攻撃だと言うが、防衛は何もミサイル防衛だけではない。中国に関してはむしろ脅威なのは海軍力である。現時点でも一定地域においてはアメリカ軍は中国に海軍力では敵わないとさえ言われるし、2025年には中国軍の艦艇の数はアメリカ軍のそれを超える見込みとされる。核ミサイルよりも使用される可能性の高い脅威に関しての議論がまるで見えない。無人偵察機も今さらRQ-4グローバルホーク運用開始がニュースで流れる始末。一体どれだけ遅れているのか。本当に防衛に力を入れる気はあるのか。北朝鮮のミサイルを山車に、防衛のためと言って都合の良い金が欲しいだけではないのか。

milirepo.sabatech.jp

 何より気に食わないのは、「賢明な日本国民ならば必ずご理解いただける」という言い方。本人にどこまでの認識があるかは知らないが、では「防衛増税に反対している人間は愚民か非国民」なのか。そう言っているように捉えられても仕方ないと思うが。「賢明な」という言葉をつかう辺り、少なくとも自分たちは「賢明な日本国民」の側にいるつもりらしい。あ ほ く さ。

首相、「国民の責任」発言を修正

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 自民党防衛費増額の財源を増税で賄うことに関する岸田総理の発言、「今を生きる国民の責任」という文言を「今を生きるわれわれの責任」に修正した。記事の内容を読む限り、岸田総理はその場で「われわれの責任」と発言していたが事前の発言案は「国民の責任」となっており、茂木幹事長が記者会見でその発言案の通り説明したので「総理が『防衛増税は国民の責任』と言った」ことになったと言う。要はそういう事にしたいらしい。

 そんなのは誰がどう見てもただの言葉遊びなのだが。それにしてもなるほど、このご時世でも平気で増税を口に出来るような人間を与党に選び続けているのは日本国民であり、その政権が好き勝手に増税議論を始めようとそれは選んだ側の責任だ。それはそうだ。一方で、国民とその財産を守る責任は国にある。国は、政府はその責任を十分に果たして来たか。自分たちの失政の責任を国民になすりつけようとしてはいないか。

 大体、責任逃れ、責任転嫁がお得意な政治家に国民の責任がうんぬんなどと言われたくない。責任は感じるものでも受け止めるものでもない。ここ数十年で責任をきちんと取った政治家はどれだけ居た?党として不祥事のあった議員にそれなりの責任を取らせた事例はどれだけあった?自分が行ったことに関しても大抵は役職を退けばそれで終わりだと思っているのではないか。責任の何たるかをまるで理解していない人間が、主権者に対して責任を語るなど烏滸がましいにも程がある。そんなに責任を語りたいなら、これまでの失政の責任をとって切腹でもされてはいかがか。

小さいハンバーグの写真が炎上した理由

 書き散らし。最近、Twitterで目にした言葉に「年賀状マウント」なんて言葉があったり、かと思えば「今まで2つだったハンバーグが3つになりました」という、暗に子供の存在を思わせるツイートが炎上したりしている。今回はそれらの理由について。それらの理由が分からないという人は良い人生を送っている。

年賀状マウントとは

 言ってしまえばしょうもない話だが、子供の写真を載せた年賀状が送られて来ることを一種のマウントと捉える人間がいる、という話。

年賀状マウント、ハンバーグ炎上に共通するもの

 年賀状マウントも小さいハンバーグの写真も、そこに共通するのは発信する側が結婚して子供がいるということ。同じくらい充実した(=何の不自由もなく恋愛して結婚して子供もいる)人生を送っている人間には「それがどうした」という感じだろうが、今はそうした人生を当たり前に送ることが出来る時代ではない。むしろそうした人間は減っている。

 その中でTwitterで不意に流れて来る子供がいることを匂わせるツイートも、知り合いから送られて来る年賀状も、受け取る側が情報を受取るか否かを選択しづらい上に「私はこんなに幸せな人生を歩んでいるんですよ」という、ある種の自慢に見えてしまう。

 今は結婚したくても出来ない、恋愛すら出来ない人間が増えている。内閣府の研究会が壁ドンがどうのと抜かすほど、若者の恋愛離れは進んでいる。性交渉も減っているし、今年の出生率は過去最少を更新した。今の20代は約25%が生涯未婚と言われる。そうした中ではもはや子供は贅沢品であり、結婚して子供がいる人生というのは羨望の的なのである。だから結婚している、子供がいるというのはそれが当たり前に出来る人間からすれば何とも無い事でも、そうでない人間からすればその事実自体が自慢なのだ。

 だから情報を発信する側には悪気は無くとも、受け手によって炎上が発生してしまう。妬みそねみを買ってしまう。今の日本において、「自分が結婚して幸せな生活を送っている」という事を発信するのはそういう事である。極端なことを言えば、スラム街を金持ちっぽい身なりで歩くようなものだ。本人はただ(本人からすれば)普通の格好で歩いているだけなのだが、それを見るスラム街の住人の目は羨望と嫉妬に染まっている。逆に言えば日本社会は結婚・子育てがもはやそんな位置づけに来るほど没落している、とも言える。

 なおタチの悪い話なのは、先述したようにそれが双方意図せずに起こっている点。発信する側はまさか年賀状でマウントだと思われる、ハンバーグの写真で炎上するなどとは思ってもいない=完全に悪気は無く何が悪いのかさっぱり分からない。受け手側は普段、見たくもないと思っている他人の幸せな姿が不意に視界に入って来るのだから、より一層の不快感を覚える。このミスマッチがさらなる軋轢を生んでいる。

 幸せな姿など親しい身内以外に見せるべきではない。妬みを買うから。

「未婚で40代は狂う」のか

 Twitterで某ブログ記事が震源地となって話題だったのでネタをパクる。なんでも「未婚で40代になると狂う」かどうかが命題らしい。

「狂う」とは

 おそらくここで言う「狂う」の定義は「寂しさや虚しさに苛まれて仕方がなくなる」という意味なのだろう。未婚のまま40代になればもはや結婚は絶望的であり、人生に残されたイベントはかなり限られて来る。人生100年時代とも言われる中で、仮に100歳まで生きるとすれば約60年は消化試合。その点で言えば寂しさ、虚しさを感じるのは何ら不思議ではない。孤独に弱い人間は本当に狂ってしまうのかも知れない。その点では全ての人に言える訳ではないが「未婚で40代は狂う」は成立し得ると思う。

結婚さえすれば「狂わない」のか

 一方で未婚=狂うならばその逆、「結婚すれば人は狂わない」は成り立つかについては結構な反論が見られた。かくいう私も結婚さえすれば狂わずに済むとは思っていない。私の人生は最初から狂っていたので今さら狂うもへったくれもないし、弱者が無理をして結婚なんかしても「幸せな家庭」とやらは築けない。結局はお相手や(子供を作るとしたら)子供の人生まで狂わせることになる。だったら狂うのは自分1人で良い。そう思っている。結局どう足掻いても狂う。

 そも身の回りの既婚者がまともな人間か、狂っていないかと言われればそうでもない。本当に幸せな結婚生活を送り、狂わずに最後まで付き合えるのはほんの一握りの恵まれた人々だと観察していて思う。今の日本社会を見ていると、むしろこのご時世に結婚して子供を作れるなんてよほど金があるかそれこそ「狂っている」のではとさえ思う。サルみたいに子供を作っては虐待だ何だというのはありがち。「結婚できる=まとも」であれば、世のDV男や妻子持ちの犯罪者は何者なのか。

 こんな世の中、いっそ狂ってしまった方が楽になれるのでは、という意見もある。狂うまでがなかなか苦しいと思うが、それも一理あるだろう。就職氷河期の世代の方々はかなり辛い思いをされて来たと思うが、その下の世代も多少マシとはいえ大差は無い。行く先は同じであり、国の、社会の在り方が狂っている以上はその歪みがどこまでも出続けるだろう。

復興税の転用は許して良いのか

 政府・与党内で「復興特別所得税」を防衛費に転用する案が出ている。これに関して我々はどう反応すべきなのか。

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復興税について

 復興特別所得税は、東日本大震災の復興のためという名目で所得税に上乗せされている所得税である。「基準所得税額に2.1%上乗せ」というのは、たとえば年間の所得税が10万円の場合、その所得税×2.1%なので2,100円となる。

 制度的に創設されたのは平成25年(2013年)分からなので、9年間は復興のために所得税を余分に払っている計算になる。震災から数年間は本当に復興のために必要であったとは思うし、本当に復興に生かされているのかと疑問は感じるが無駄ではないと思う(思いたい)ので多くの人はそれで納得して来ただろう。そもそも知らなかったという人も居るかも知れないが。そしてこれは現段階では令和19年(2037年)12月31日まで続く。まだまだ先は長い。

安易な転用を許すべきではない

 現時点で復興特別所得税という税金があり、東日本大震災から10年以上経過した今、その税金の意味が揺らいでいるのではないか。そこでその制度をそのまま防衛費に転用しようという話が出て来たのだろう。しかしそれはありがちな、しかしてやってはいけない考え方だと思う。

 確かに新たな増税という形では反発が大きい一方、既存の税金の使い道を変えるだけならば反発は起きづらいかも知れない。それも元から2037年まで徴収することが決まっている税金ならば、当面は「制度が終わりを迎えたのでやっぱりまた増税します」と言う必要もない。

 しかし復興特別所得税はその名称の通り、法的に決まった段階からその用途が復興目的に限定されている。根拠となる法律の名称は「東日本大震災からの復興のための施策を実施するために必要な財源の確保に関する特別措置法」であり、政府がその時その時の都合で好きに転用していい財源ではない。法的な筋道を通すのであれば一度この特別措置法を廃止し、改めて防衛費に使用するためという趣旨で新しい法案を国会に通す必要がある筈。腐っても行政・立法府の人間が、そうした筋道を無視すると言うのだろうか。特にそれを言い出した政府税調の政治家どもは完全に財務省の犬なのだろう。官僚に犬のリードのようにネクタイを引っ張られて間違った方向へと進んでいる。秋葉復興大臣はその点、まだまともな感覚を持っていると思う。

 そもそも復興のためとして所得税に上乗せされていた税金の転用を、国民が許すかというのも見通しが甘い。政府与党からすれば「新しい増税法案を通すより楽だし今も徴収されている税金なんだから構わないだろう」という感覚なのだろうが、逆に言えば増税に関してその程度の認識だという事が露呈してしまったとも言える。復興税は被災地があまりに気の毒であるから多くの国民が許容して来た訳であって、復興税を安易に転用しようという発想はそうした国民感情をも足蹴にしている。

 それに、もし転用を許せばそれは悪しき前例となる可能性がある。復興税はあくまで「特別措置」であって、例外に例外を重ねていくとロクなことにならない。ある程度の事情は汲むべきにせよ、そうした事が重なっていくと結局は好き放題にされる。仕事でも何でも善意から例外的な対応を認めてしまう事はありがちだが、そうなると後から「あの時はこれで行けたじゃない」と幾度となく相手のワガママを通す事になる。下手な譲歩は相手をツケ上がらせるだけ。

安全保障と経済

 北朝鮮のミサイルや中国の海洋進出といった脅威は確かに増している。それによって日本としても安全保障における能力強化はせざるを得ず、防衛費増額の必要性があることも理解できる。一部の人間は「日本が防衛費増額を進めれば相手に軍拡の口実を与えることになる」などと抜かすがそれは明らかに逆で、中国や北朝鮮の軍拡が日本に防衛費増額を強いている。今は明らかに中国や北朝鮮の軍事力の方が日本のそれよりも脅威であり、パワーバランスを悪化させている。

 しかし一体どれだけの国民が、今の日本政府の税金の使い方に納得しているのか。増税うんぬん以前にまず支出の見直しが先ではないのか。最近相次いでいる東京五輪を巡る汚職でも、国葬でも、クーポンがどうのでも何でも、あらゆる点で税金が本当に必要な所へ必要なだけ使われているとは言い難いのではないか。エネルギー問題でも何でも家庭には節約を要請する一方で、まったくもって切り詰め方が努力不足の日本政府が経済情勢を顧みず、ただ「足りないからお金ください」では反発を生むに決まっている。復興五輪って何だったんだ???コロナもあったとは言えど。

 何より岸田政権では、たとえアベノミクスのようなまやかしでも「経済が全体的に良くなって行きますよ」という経済政策が無い。ちまちました旅行・飲食業支援や雀の涙ほどの電気代支援等はあってもそれらはただ場当たり的なものに過ぎず、包括的な経済政策が無い中でむしろその逆を行く増税を持ち出している。そこで反発が広がるのは当然で国の内外でのパワーバランスが悪化している一方、国内において経済と安全保障のバランスも悪化しつつある。悪化させようとしている。

 安全保障と経済はいわば両輪であり、そのどちらかがバランスを欠けば国は行く方向を誤ってしまう。安全保障(というか軍事)が極端に大きくなった好例は北朝鮮なのだろう。その逆はなかなか無いと思うが、何にせよ軍事には信じられないほどの金がかかる。その金は豊かな経済からでしか賄うことが出来ない。中国が軍拡を順調に進められているのは、中国経済がこれまで成長を続けて来たからに他ならない(これからは分からないが貯金はあるだろう)。それを日本の政治家は悲しいことに理解できていない様に見受けられる。これから必要なのは目先の利益(=増税)ではなく、多少遠回りでも国内経済をより良くしていくことである。タバコ税をという話がさっそく出て来ているがあれも気に入らない。要はインボイス制度のように、反対の起きづらい所を狙い撃ちすれば増税は許容されるだろうと思っているのだろう。そういう考えが透けて見える。

 岸田総理は記者会見で「未来の世代のためにご協力を」とのたまったが、今年も少子化は過去最悪ペースで絶賛進行中だ。そうした社会を作って来た/作っている連中が「未来の世代のために」とは、呆れや怒りを通り越してもはやお笑いにすら見える。経済的な要因で結婚できない、子どもが作れない、重税や物価高で子どもが生まれても食べさせていくのがやっと、ネグレクトや虐待その他育児に関する問題は増える、そうした社会を作って来たのは誰か。もちろんそれを支持して来た国民も悪いのだが。

余談:愛国心

 一部の連中は”愛国心”について何か妙な勘違いをしているようで、それが個人的には心底気持ち悪い。「愛国心のある国民がいる国が良い国」だとか、「愛国心がない奴は日本人じゃない」とかそういう類の思想を本気で信じていて、ことさらに愛国心とやらを現在の日本国民に求める連中が気持ち悪い。

 豊かな環境で充実した人生を送れてこそ、人はその環境に感謝する。そうした感謝の念があって初めて、その環境へと自分の力を還元しようという志が生まれる。それが国という単位に向いた場合が真の「愛国心」であると私は思うが、今の日本という国はそうした志が芽生えるに足る国だろうか。「愛国心がある国民があって良い国がある」のではない。「豊かな国があってこそ国民はその国を愛する」のだ。「愛国心がない人間は日本人ではない」訳ではない。「社会に不満があり過ぎてそんなどころではない、むしろ社会の在り方を恨む人間が増えすぎている」だけだ。

 なぜ一部の連中は「愛国心」というものの捉え方が歪んでいるのか。「自分の人生は豊かで充実していたから、こんなご時世でも愛国心がある」となれば結構なことだ。ひょっとしたら(自分自身は何不自由なく育ったから)どうしてこんな良い国で文句ばっかり言う奴がいるのかと、憤っているかも知れない。しかし実際は世の中そんな人ばかりではないし、むしろそういう人は減る一方であり、現代日本においてはマイノリティであって大衆からすれば「歪んで見える」。

 あるいは自分自身に「日本人であること」くらいしか誇れる事が無いのか。「日本」というアイデンティティにしがみつき、そこに愛国心という鞍で乗ることでしか自分自身に価値を見いだせないのか。日本人の中ではまだまだそれだけでは他者との差別化がなかなか出来ない。だから何かにつけて「~じゃないなら日本人じゃない」などと言いたがるのではないか。何とも虚しい愛国心だ。

 

正義の正体

いつも以上の感想文なので特に論理的な展開はありません。

 Twitterで社会正義についての話が流れて来て、そういえば近年流行っているポリコレだのSDGsだのといった正義は本当に”正義”なのかと少し考えていた。そうした正義が持つロジックが今のところ「正しい」とされている以上、そうした正義に逆らうことは難しい。一方でその正義に対して、その正義とやらがもたらしている物事に対して違和感を感じている人もそれなりに居るのではないか。

壮大なハッタリ

 正義というのはそれがどのような形であれ、私には壮大なハッタリのように思える。よく「正義の反対はまた別の正義」と言うように、正義とはそれを掲げるものが定義する「正しい論理」。裏を返せばそれは定義する者によって左右され、ある面から見れば確かに一応は正しい(らしい)と見える。しかし批判的な側からすればそこに正しさは無い。誰から見ても間違いなく正しいという事実はそこには無い。

 本質的に絶対的な正義など無いのに、時に正義はそれを御旗にした者をどこまでも進撃させる力がある。これが何となく私にはハッタリ、ブラフのように感じられる。それがまだ許容できるレベルの内は良いだろう。それによって社会が実際に良い(と思われる)方向に動くのなら、あるいは動いている内は、正義はまさしく正義として機能する。その範囲内であれば、たとえそれがブラフであっても社会全体にはプラスに働くので問題は無いし大衆もそれを許容する。

 しかしそこで、正義の旗の前にあらゆる人間がひれ伏して横にどいて行くからといってどこまでも突っ走り過ぎればやがて、正義は正義で無くなる。正義とはそれに騙され、支持する大衆がいてこそ成り立つ。そこで大衆がついて行けないレベルで急速に、正義の名のもとでの改革を進めればどうなるか。それまで近くで熱狂していた人々は正義から距離を取ることになる。熱から醒め、批判的な目で正義を見ることが可能になる。それでも正義を掲げる者は、今まで掲げてきたハッタリがいつまでも通用すると思っている(思いたい)。

 やがてそこには反発が生まれる。ハッタリは一度それがハッタリだと分かってしまえば二度と通用しない。それまで正義であったものはもはや正義ではなくただのまやかし、打ち捨てられた書き割りになる。むしろ「ただの鬱陶しいもの」にさえなる。クリスマスチキン中止がどうとか言ってる連中が好例だろう。彼らには彼らなりの正義があった筈だろうが、今や大衆からすればただの鬱陶しい人たちでしかない。「正義」のハッタリの裏側で不正を働いていた事が明るみに出れば最悪(Colaboのように)。正義はたちまちその皮を被った悪(の温床)として認識される。

 だからこそ、正義を掲げる者はその正義に対して批判的な目を向けられることを嫌う。よくよく観察し、批判的な目で見られれば「正義」は社会を動かす原動力としてはそこまで力の無いハッタリだと露呈してしまうから。それが自分たちが目指す社会の変革を成し遂げるまでに起こってしまうのが怖いから。自分たちが正義の影に隠れて行っている不当な行為が明るみに出るのが怖いから。その点、本当に社会を正しい方向へ導き得る正義を誤った扱い方をして、二度と通用しないものにしてしまう連中は本当に質が悪いと言える。ColaboとかColaboとかColaboとか。

 結局のところどこぞの切って繋ぐ人ではないが正義の味方でいられるのは期限付きで、「正義」が本当に正しいかを見極める事も難しい。ジャンヌ・ダルクだって最初は聖女だったが最期は火あぶりにされた。ヒトラーだって最初は正義として台頭したが最期は戦争に負けて自決した。正しいと思っている事がいつまでも正しく、それがいつまでも大衆に受け入れられる保証は無い。一時の正義が社会を正しい方向へ導く保証も無い。「正義」の取り扱いはなかなかに難しい。

 ポリコレ、マイノリティの尊重などと言う話もいずれは消えて行くのだろう。綺麗さっぱり消えればまだ良い方で、むしろ今のポリコレやマイノリティを尊重せよという正義はいずれ、マイノリティへの憎悪を助長するかも知れない。マイノリティの尊重はマジョリティの同意があってこそ成り立つと私は思う。そこで同意が取れなくなればどうなるか。結局マイノリティはマイノリティでしかない。ポリコレはポリコレであらゆる作品をめちゃくちゃにしている。第二次世界大戦を舞台にしたゲームで、ドイツ軍戦車兵が全員女性だった事には本当に閉口した。スポーツでは身体は男だけど心は女という選手が女性の大会に出て表彰台を飾っている。いずれ手痛い反動が来るだろう。

 今の日本で言えば、防衛費増額は正しいのだろうか。不安定化する世界情勢の中、隣国が隣国なのですぐにでも防衛を強化したい気持ちは分かる。しかしこの日本社会、経済の状況を見て、「防衛費のために」というのは正義であり続けられるのだろうか。私は既について行けていない。理解したくもない。このままでは防衛どころか内側から国が滅ぶ。北朝鮮のような国を目指すというなら話は別だが、そんなのはまっぴらごめんである。