朝日新聞の記事にこんなものがあった。Xでたまたま目についたが有料記事なので無理して読む必要は無いだろう。私も全文は読んでいない。
「戦争反対」は政治的なメッセージととらえて良いと私は思うのだがこれは異常なのか・・・?
政治的かどうか以前に
主義主張を開陳するのであれば、それに適した場所で行うべきではないかと思う。思想や主張の是非、政治的かどうかうんぬん以前に右翼も左翼もこれを弁えない者が多い。感覚麻痺ゆえに政治的かどうか理解できないにしても、意見を述べるに適した場かそうでないかくらいの区別はつけて欲しい。
上記の記事の例で言えば何の変哲も無い現代的な喫茶店の軒先、カウンターにマグネット付きクリップで、まさしく取ってつけた感じで「WAR IS OVER!」や「パレスチナ人の虐殺やめろ」などと書いたプラカードが掲示されている。それだけで喫茶店としての景観を損ねており、避けられる理由にはなる。もしこれが右翼の喫茶店で「天皇陛下万歳」や「日本に空母を」みたいなプラカードを掲げていたら、件の喫茶店を擁護している人達は何を言うだろうか。
喫茶店に来る人間はこのような主義主張に共感したいから来る訳では無い。何の気なしにふらっと立ち寄ってコーヒーを買って、様々な考え事から開放されて一息つこうと思っている。そこで「パレスチナ人の虐殺をやめろ」というようなプラカードを目にすると、その主張の是非を考える以前にリラックスへ向かっていた気持ちがたちどころに厳しい現実へ引き戻される。気持ちが休まらないため、「思想貼っているのは私には合わない」という感想が出てきても何ら不思議ではない。
ここでまた左寄りが勘違いしてそうなのが、「私には合わない」というコメントが何に向けられているか。ひょっとすれば彼らは「戦争反対という意見が」私には合わないと取っている可能性がある。しかしこの場合、「リラックスしたい場所でそれにそぐわない主張が貼り出されていることが私の感覚には合わない」という意味であろう。その辺りを勘違いして変に被害者ぶったお気持ち表明をしているから余計に引かれる。
これがもし、もとから自称平和主義者やアナーキストなどが集まって議論をする場として作られた喫茶店ならば話は違っただろう。最初からピースマークでもチェ・ゲバラでも何でも掲げて、店全体でそういう雰囲気として売り出していれば良かったのだ。それで繁盛するかどうかは知らんが。
主義主張を表に出す意義
左としては「戦争反対と意思表明しただけで文句を言われるのはおかしい」という感覚もあるようだが、「戦争反対」、戦争は良くないことだというのは至極当然のことであって、大衆からすればわざわざ不必要な場面で表明する必要があることでも無い。これはその他にも言えることだが主義主張をこれ見よがしに掲げることは避けられる理由になる。
なぜ避けられる理由になるか。そういう人たちが「戦争反対」や「原発反対」などの正しさを笠に着て、好き勝手な主張を好き勝手に叫んで来たからだ。大衆は今や主義主張をあえて見える位置に掲げるような者を、大義の下に好き勝手暴れたいだけで話が通じない人間と見なしている。
これは何も左に限らず右翼その他の諸問題にも言えることで、Xのユーザー名に日本国旗や復古主義的な主義主張、反原発だの反ワクチンだのを入れている人種は避けるべき人間と見なされるであろう。反戦を大義にするか、愛国を大義にするかで程度的には実際大差ない。日本においてはまだまだ「日本人であること」は特別な事でも何でもないし、自称保守が目指すような復古主義的思想は現代日本には合わない。反原発は急進的、反ワクチンは陰謀論的だがそれを主張するものは自らが正しいとして疑わず、対話が成立しない。
反原発に関しては反原発と原発推進に分かれて叩き合うのがまず不毛な話であり、原発をこれからどうして行くのか。後始末までどう考えて行くのかは賛成/反対/現状維持に関わらずすべての国民にとっての課題だ。
何らかの意見を述べるのであればほどほどに、こういうあまり人目に触れないブログやただのツイートで書きなぐっておくか、そのための場で行うくらいが良いのでは。
余談:議論の場
改めて考えると、日常において政治や経済などに関して議論をする機会は驚くほど少ない。特に政治の話はしない方が良いとまで言われている面がある。日本人は驚くほど意見の衝突を嫌い、議論を極力避けている。場を弁えずに大義を掲げる人々はそれゆえに必死になるのかも知れない。あまりに意見を述べ、ぶつける場が少ないから。
そう思えば憲法改正などと与党が言い出すのはちゃんちゃらおかしい。憲法改正に向けた成熟した議論など一体どこにあるのか。国民の関心も無ければ議論がなされるような環境がそもそも存在しない。議論の成熟などしようが無い。
「与党の中では」成熟した議論があるのかも知れないが、年を取っているだけで世の道理を何も理解していない政治家が好き勝手に考えた改正草案など何の価値も無いし、国民の側で草案内容の是非について議論が無ければ憲法改正の機が熟したとは到底言えまい。
国民の生活はそんなどころじゃねンだわ・・・そんなどころじゃ無くない?
