ヤマネコ目線

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見たくない表現に触れない権利

 書き散らし。月曜日のたわわに関連して「見たくない表現に触れない権利」なる言葉を見かけた。が、それはそれでどうなのだろうか。

誰の目線で線引するのか

 表現規制に関しては慎重になるべきで、その理由は「下手な規制をすると影響する範囲が広すぎる」からである。「見たくない表現に触れない権利」と言うがそれは一体、誰目線での「見たくない」なのか。そういった権利を認めるべきだと言っているその人たちにとっての「見たくない」だろうか。もしそれが認められるなら、それ以外の様々な人々の「見たくない」も認めるべきだろう。認めざるを得なくなる。

 「見たくない」という言葉が対象に取る範囲は限りなく広くなっていく。そうなった時、世の中がより良くなるかと言うと私はそうは思わない。あなたが見たいと思うものは、誰かの「見たくないもの」かも知れない。まさか私達だけの見たくない権利を守れ、とは言うまいな?

 そして実際、表現規制を叫ぶ人間達は社会に対して過大な要求をしている。彼らの要求に応えて何かを規制すれば、それを成功体験としてどんどん表現規制の幅を広めて来る。その時その時は小さな要求であったとしても、それは延々と続いて行く。その行く先が目にみえて窮屈な社会である限り、社会が動く事はない。そもそもそういう人間に出版業界などが合わせる必要性がない。一文の得にもならないし、実際に徹底して無視されている。

娯楽の本質

 「犯罪行為にあたる表現は一切禁止にすべき」、などと言う人間も居る。これも明らかに過大な要求の例。創作においてそういった表現を規制しようとして、賛成に回る人間が世の中にどれだけ居るか。人間の本質が誰しも純粋でキレイでキラッキラしたものなら賛成多数かも知れないが、残念ながら大体の人間はそうではない。逆になぜそこまで潔癖になれるのか不思議になるし、生きてて面白くないんだろうなと思う。自分が生きてて面白くないから、世の中もっと私に合わせて面白くなくなれと思うのだろう。

 娯楽の本質は「非日常性」であり、そこには日常生活でのタブー=犯罪も多分に含まれる。それらを排する事は娯楽の幅を狭めるに等しく、ただでさえ息苦しい今の世の中をもっと息苦しくする事につながる。刑事ドラマは犯罪者が出てくるのでダメ、スパイ映画なんてもってのほか、ハリウッド映画は全て規制。アニメもダメ、下手なCMを打てば即規制、ずっとACの広告ばかり流すしかない、そんな世界。誰が望むのだろうか。少なくとも私はお断りだ。そんな事まで言ってないって?いずれそこまで行くんだろ。知ってるぞ。

過大な要求の終着

 社会に過大な要求をし続ければ、そのうち誰にも相手にされなくなる。せいぜい同じような思想を持つ少数派で騒いでいるだけで、ノイジーマイノリティと括られて終わり。社会全体を変えるまでには至らない。いわゆるサヨクがその良い例である。世界平和などという人間にはキレイ過ぎる理想を掲げ、現実を見ずに安全保障のあるべき姿と逆行した主張をし続ける勢力。彼らがマジョリティたり得る要素は無い。

 「見たくない表現に触れない権利」はまさにそのような過大な要求であり、その主張そのものが「見たくない」とされるのに時間はかからない。

 

 私が見たくないのであらゆるメディアでのカップルも誰かの子供も、結婚して幸せそうな姿もマンガの中のイケメン長身優男も規制しろ(ヤケクソ)。「見たくない表現に触れない権利」がまかり通るってんならな!