ヤマネコ目線

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ただの呪術廻戦の感想

 呪術廻戦の両面宿儺がとうとう逝った。まだあと数話残っているので何とも言えないが、ラスボスとしての評価は分かれているように思う。

 個人的にはそんなに嫌いではない。最期まで宿儺らしかった、呪いらしかったと思う。悪役に対して濃いキャラ造形を求めている人には物足りないのかも知れないが、あまり多くが語られないのは語るだけのものが無いから、かも知れない。描いたとしても好き勝手に暴れる姿があるだけだろう。

 作中に登場するほかの呪霊にはそれぞれモチーフがある。火山への畏れ、蝗害への畏れ、人間そのものへの畏れ等。では両面宿儺は一体「何の」呪いなのか。

 ふとそれを考えた時に思ったのが「生き方」としての呪い。ああいう生き方、傲岸不遜で他人に対して関心を持つことが出来ず、他者の人生に価値を見出すことも出来ず、当然ながら他人を頼ることも*1、対等な友を得ることも、伴侶を得ることも出来ないまま、ただひたすら自分が思うがまま孤高に生きるしかないという、ある種の呪いのようなあり方。その生自体が呪いであったのではないか。だからこそ彼は呪いそのものであり、史上最凶の呪霊であり続けた。

 そこに悪としての野望や目的、同情を誘う悲しい過去があった訳ではない。受肉*2した直後、宿儺は「女も子供も、ウジのように湧いている!鏖殺だ!」と嬉しそうにはしゃいでいた。そのセリフ通り彼にとって人間は対等な存在ではなく、我々がたまたま野山で山菜を見つけた時のように、ただ気まぐれに刈り取って食べる程度のものでしかなかった。その中で抱く野望など最初からありはしない。ありえない。

 なので最終決戦の際、虎杖に情けをかけられてかつてないほど怒りを感じたのではないか。せいぜい狩り答えのある野ウサギ程度に思っていた相手に「降伏すれば命だけは助けてやる」と言われて面白い筈がない。自分よりも絶対的に下であると認識していた相手がその精神性のみで自分と対等に立ち、なおかつ虎杖が他者にあまり向けたことがない「憐れみ」を自分に向けられたならばなおさら。

 この点、呪術的な甥にあたる虎杖悠仁とは対照的に描かれている。虎杖は誰に対してもフレンドリーであり、弱者に寄り添う心を持ち、他者の人生にも自分自身の死に方にも強い関心がある。何より孤高ではなく、対等に接することができる相手がいる。守ること、救うことに価値を見出しており、人間を資源として消費するものと考えている宿儺とは対極に位置する。

 また、祖父に言われた言葉、七海建人から託された言葉が虎杖悠仁の中には生き方に対する一種の呪いとして付いて来た。それが虎杖の生き方の方向性を決めた面はあるだろう。

 宿儺は根本的に人間に対する認識がズレているので、領域展開で何をどう見せようが人間に対する見方で分かりあえる筈もなかった。我々だって「アリにも1匹1匹の生涯があるんですよ」と見せられようが、そこに自分自身に並ぶだけの価値を見出すことは難しいだろう。

 それでも虎杖は宿儺に対して「お前は俺だ」と言った。あれは一体どういう意図だったのか。ひょっとすると「ああいう生き方」しか出来なかった場合の自分自身を想像し、憐れんでゆえの言葉かも知れない。

 マンガの中の登場人物に限らず、両面宿儺のような生き方しか出来ない人間はいる。誰もが道を誤れば、出会いが無ければ、環境が悪ければ両面宿儺になる可能性を秘めている。私もそこに近いと自覚しているというか、虎杖と宿儺で言えば圧倒的に宿儺の気持ちの方が分かりそうな気がする。

 差し伸べられた手を取って人間の中で人間として生きるのか、拒絶し続けて呪いのまま消えてなくなるのか。どちらが良いのだろう。あるいはもはやそういう呪いとは解けないものなのか。

*1:伏黒はあくまで踏み台であって人として頼っている訳ではない

*2:現世に蘇ること