ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

Colabo問題の横にある闇

 書き散らし。*いつもながらあまり纏まった文章になっていません。

 Colaboが連日燃えている。あれはあれで正義の旗の下に好き放題した結果なので自業自得としか言いようが無いのだが、その傍らにはより深い闇が広がってるように思う。

別問題として

 Colaboのような正義を笠に着て好き放題やる団体は確かに問題なのだが、そのすぐ横にはより深い闇がある。女性支援団体とやらは風俗やAV産業で働く女性を「救うべき弱者である」と決めつけ、その支援のためという正義を掲げて活動して来た。しかし私が知るかぎり、実際はそうした女性は弱者ではなく自ら望んでそうした業界で働いている人の方が多い。

 「望まぬ身売りを強いられる可哀想な女性」がほぼ存在しないことは良いことのように思うが、裏を返せばそれは女性の貞操観念、道徳観念が低下しているという事実にほかならない。「私達は買われた展」がたまにネタにされるが商売は売る人間、買う人間どちらも居るから成り立つのであって、自分自身を切り売りする女性も買う男性も増えている。それはそれで別の方面で、ともすればColaboのような団体の存在よりも深刻な問題かも知れない。

 別に売る売らない/買う買わないは本人の自由なのだが、それが道徳的にどこまで認められるべきかは一考の余地があるだろう。

価値観の相違

 「風俗で働く女性はよほど困窮しているか、借金などの理由で無理やり働かされているに違いない」、そういったレベルでなければ「身体を売る」という行為は正当化出来ない、そう思っていた時期が私にもあった。

 しかし世の中、気づけばパパ活だのギャラ飲みだのと個人レベルでの風俗行為が大流行するような嫌な時代になっている。当事者たる若い女性たちは(人によるとはいえ)たくさんお金をもらえる or 良い思いが出来るとなれば、大抵の男に平気で自分を売ることが出来る。そうした価値観を持っている。もはやそこに売らないという選択肢は少なくなり、どこまでのものを売るかという判断が実質的に残っている。肉体関係ありの風俗やAV業界で働くということも当然のように選択肢に入るので、「風俗/性産業で働いている女性は圧倒的弱者である」という価値観はもはや古い。

 むしろまともに働くのがバカバカしい世の中、そうした手を使ってでも「お金を稼いだ者が勝ち」とさえ彼女たちは思っている。1日で下手な会社員の1ヶ月分の給与が稼げる(それも男性基準での1ヶ月分)のだから、リスクはあるにせよ苦労相応の報酬が得られるとも取ることができる。今やまともに働くよりもそうした行為や転売ヤーにでもなった方が儲かる、実益になるというのは本当に嫌な世の中である。

 もちろん、そうした状況に陥っている事に関しては女性が悪いという訳ではない。男性でも心底うんざりするレベルの重い税金・社会保険料がある中、女性には同じ仕事内容でも男性との賃金格差が存在する。女性が自立して生活していくためには貧困を受け入れてつましく生活するか、身体でも何でも売れるものは売って満足いく暮らしを目指すか、といった残酷な二択が存在している。公務員の女性が風俗に勤務して副業禁止規定に違反し、免職されるような社会。容姿によってはその選択肢すら無い。

 Colabo問題のすぐ傍にある闇はそうした現状で、格差拡大、社会が落ちぶれるにつれて日本人の人間性もどんどん落ちぶれて来ていると言える。もともとそこまで大したものだとは思っていないが、経済的な余裕が無いがゆえに精神的な余裕を無くし、豊かさの本質を理解せず、拝金主義的になり道徳や倫理が軽視される時代に突入している。

 それは”買う側”の人間にも言えることで、おそらく男性の場合は若い頃に恋愛弱者であった者が多少、歳をとってそれなりの収入を得たので、金で買えるからと春を買っているのだろう。そうした人間にとっては道徳や倫理といったものよりも自己の利益が優先される。

その他の分野で

 経済・社会の没落に伴う節約志向はもはや度を超し、拝金主義、道徳や倫理の軽視という段階まで来ている。それは何も貞操観念だけに限らない。

 ファイル共有ソフトや無断アップロードによる不正なコンテンツの共有、転売行為の横行といった事象はまさにそれにあたる。

マイナンバーカードと口座紐づけについて

 書き散らし。政府はマイナンバーと口座の紐づけを検討していると言う。これに関して。

news.yahoo.co.jp

本当の狙いは何なのか

 記事最後付近に「コロナ禍に給付金事務に手間取った経験から」とあるが、私が知るかぎりコロナ禍まっただ中でも一律給付金は1度だけであった。そもそも何をそこまで手間取る要素があったのかが分からない。給付金申請書には振込先口座を書く欄があるのでそれで何がダメなのか。逆にマイナンバーと紐づければどうなると言うのか、その辺りのメリットがよく分からない。

 むしろそうした流れを作り、国民の資産を課税のためにより正確に把握できるようにする、下手をすれば預金に課税するとも言い出しかねないのでは。という不信感が私の中にはある。岸田総理の言う「投資による資産所得倍増」において、国民により投資を促すためには預金額に応じた課税が一番効果的だろう。

制度的ないやらしさ

 今は「給付金受け取りのために口座とマイナンバーを紐づけてください」と言っているが、これが制度設計的にどうなって行くか。

 「給付はマイナンバーと口座を紐づけている方だけに行います」、「紐づけていない方は対象外とします(あるいは大幅に給付額を減額します)」という流れになるのではないだろうか。制度設計的にマイナンバーと口座を紐づけざるを得ないように思わせる、半強制的な制度設計が行われることが予想される。

 そうした制度設計によって人の行動をコントロールする発想は既にある。これまで当ブログでも言及してきたインボイス制度がまさにそれで、選択肢があるからと言ってそれはイコール「完全な任意」とはいえない。

manuller416.hatenablog.com

 インボイス制度では一応、「課税事業者になるか、免税事業者のままでいるか」という選択肢が残されている。しかし免税事業者のままでは取引先が仕入税額控除できなくなるため、大人しく課税事業者になる、廃業する、消費税10%分の値下げを受け入れるのいずれかを迫られる。

 何はともあれ、都合の良い口実を見つけてはいやらしい制度設計で国民から税を取ることばかり考えているのが今の日本政府、ひいては財務省だと思う。マイナンバーに関しては本来であれば任意であるはずの所、健康保険証についてすでにカードを作らない人間が不利益を被るような制度が作られようとしている。今、我々がそれを許して良いのか。役人や政治家はそうした細々としたところで、国民がどこまで許容するのかを試している。

少子化の原因に対する考察

 書き散らし。以前、「生きる目的が多様化したから少子化になっている」という意見に対する反論を書いた。今回はそれに限らず、より広い範囲から少子化の原因について書いてみようと思う。

経済力が無い

 まずこれが一番大きな問題なのは言うまでもない。日本人の多くが非正規雇用の拡大などで貧困化してしまった。非正規に限らず実質賃金は下がっている。格差拡大という言葉で誤魔化されがちだが、金持ちと貧乏人に二極化するのであればそのバランスは当然ながら一握りの金持ち、大勢の貧乏人である。貧困が広がれば広がるほど、それに応じて子供を作ろうと考える人間は減る。「アフリカは貧しいのに子だくさんだろ」?ここはアフリカでは無い。

 婚活女性は20代で年収500万、600万の男を求めるが、そんな男が世の中にどれだけ居るというのか。20代の貯金中央値がゼロとも言われる中で結婚相手として求められる理想に対し、現実はかなり厳しい。多くの人間が学生以上、大人未満という収入のレベルに陥り、ライフステージが上がらない状態になっている。

 経済力が無いとはどういう事か。まず結婚できるだけの年収が無い。運よく結婚できても子供を作るだけの余裕が無い。あったとしても1人か2人。夫婦2人からでは最低でも3人生まれなければ人口は増えないが、今どき3人以上の子供を作れるのはよほど余裕のある家庭か、よほど子供が欲しいという気持ちが強い場合か、考え無しに腰を振るサルくらいだろう。

「まともに育てられるか」問題

 子供は作るだけなら何とかなるかも知れない。しかしあらゆる面で満足に育てようとすれば、そこにはかなりのお金がかかる。前述したように若年層にお金は無い。食事だけでなく衣服、おもちゃ、教育、どれだけのものを子供に与えられるか。親になるのであれば子の幸せを思うのは当然のことだが、それを考えれば考えるほど経済力が無いゆえに

「満足いく育て方をしてあげられないなら子供が可哀想だ」

「そんな不幸な子を自分が無理してまで作る必要はない」

「自分の人生は自分のためだけに使う方がマシ」

という発想になっていく。

 今の若者は後述するように不景気の中に生まれ育ち、堅実な価値観を持っている。そこで妙な楽観主義は通用しない。むしろ価値観としては拝金主義に振れつつすらある。

不景気に育った者の価値観その1

 不景気に育った人間にとっては「ムダ」というのは悪と同義である。ムダを許容する余裕のない環境で育った若年層はお金のムダ、時間のムダにかなり厳しい。いまやタムパ*1と言って単位時間あたりの利益すら気にしている。動画の倍速視聴がその好例だ。

 それだけムダに厳しいことは一見、良いことに思えるかも知れない。しかし過ぎたるは及ばざるがごとし。「ムダかどうか」、「自分にとってどれだけ利益たり得るか」というのが行動原理となり、その中での「ムダ」の範囲に恋愛、結婚、子育てが入ってしまっている。ように私は見える。当然その「ムダ」は削るべき悪とみなされている。究極的な話、「子供を作ったらそれだけ寿命が延びる」とかでも無い限り、もはや今の若年層は動かないかも知れない。

 そも人間、多少のムダは許容できるだけの余裕がなければならない。ムダというのは裏を返せば豊かさであり、あらゆる事に関して効率化、省力化を突き詰めざるを得ないという状況は豊かさの対極に位置する。不要なものだけをムダと認定するレベルならまだ良い方で、近年の違法ダウンロードや転売ヤーの流行などを見るにもはや必要な道徳、倫理観といったものまで「ムダ」と認定されるレベルになりつつある。貧しいなら頭を使え。どんな手を使ってでも金を稼いだものが勝者、金が全て。人々の心がどんどん貧しくなりつつある。

不景気に育った者の価値観その2

 不景気に生まれ、日本社会が下り坂を転げ落ちる中で育つということは自分が子供の頃=日本が一番良かった頃という大人を生む。よくクレヨンしんちゃんのひろしが話題にされるが、かつて平凡なサラリーマンの象徴だったキャラクターが今や”ハイスペック男子”と呼ばれるまでになっている。自分が子供の頃に描いていた「大人像」が、いざ自分が大人になった頃には手の届かない存在になってしまっている。

 しかし価値観はそう簡単には変えられない。昔は当たり前だった筈の生活水準が今は実現できないというのは相当なストレスになる。それに結婚や子育てなどが絡むとなるとなおさら。高い理想の前に厳しい現実が突きつけられればどうなるか。そこには失望、絶望、諦めが広がる。

メディアの中の価値観

 クレヨンしんちゃんのひろしに触れたが、クレしんに限らずその他あらゆるメディアにおける価値観もあまりアップデートされていない。あるいはアップデートが追いついていない。

 となれば、そうしたメディアに価値観を醸成されて育った人間が現実を見てどうなるかはお察しである。アニメもマンガもドラマも恋愛至上主義TikTokFacebookを通して見るキラキラした世界。そうしたものを見て育った人間が世の中の現実に気づいた時にはまたしても失望、絶望、諦めが待っている。

 たまに聞く「アニメキャラと結婚する」という発想は、そこで起きる一種の現実逃避と考えるべきであろう。お金も無いのに無理をしてあんまりな現実を受け入れるより、幻想に脳をひたしていた方が楽であり楽しい。という訳である。

育児環境としての日本

 世界的に見れば日本はまだ恵まれた環境と言えるのだろう。が、人々から経済的・精神的どちらの余裕も無くなり社会全体が不寛容になりつつある。公園ではあらゆる行動が禁止され、ベビーカーを公共交通機関に乗せれば白い目で見られる。ムダを許容する余裕がないという事は、それだけ他者に対する余裕、許す余裕が無いことを意味する。

 そして子供に関わる人間がいつまでも低賃金・長時間労働で苦しんでおり、保育所も教員も不足している。最近では2人目が生まれて育休に入ると強制的に退園させられる制度が話題になった。子育てに関するリスクはまだまだ大きい。そうした状況を若者は見ていないようでちゃんと見ているし、育つ過程でそれを肌で感じ取っている。ただでさえ余裕が無い中で頑張って結婚、子供を授かっても、その先がまだまだ暗いというのが見えている。「子育て罰」なる言葉が出て来るような国に未来は無い。

 たまに他の地域・国家の環境を引き合いに出す人間がいるが、日本国内の話と世界のその他の地域の話はまったくの別問題であって、そこで「(国名・地域名)よりマシ」などという論法はまったく意味がない。根本的に環境が異なる地域とは社会的な問題の内容も根底も違う。

都市部一極集中

 東京や大阪といった都市部に人口が集中し過ぎていることも少子化の一因ではないかと思う。単純にそれだけ人が多ければ人口減に対する危機感は覚えないだろうし、物価は地方より高くなるのでただでさえ経済的余裕が無いところに更に余裕は無くなる。地方は地方で単純に人が居ないのでどんどん寂れていく。地方には仕事が無いというのは問題なのだが、逆に言えば人が居ないから仕事がない、仕事が無いから人が出ていくという負のループに陥っている。

 特に東京は年間約40万人が地方から移住すると言われる。明らかに人口過密であり、それも移住するのが地方で生まれた若者であるからには、日本全国から活力を奪っていると言っても過言ではない。たまに「東京だけでGDPは小国に匹敵する」などと言うがそれは当然の話。基本的人権に関わる話なので難しいが、都市によっては人口制限、移住制限も視野に入れるべきではないかと思う。その中で小池都知事が打ち出した子供1人あたり月5,000円の政策は、むしろ東京一極集中を加速させかねない。

生まれながらの格差

 格差が拡大するということは極端な話、世に生まれて来る子供が「少数の恵まれた子供」と「大勢の貧しい子供」に二極化するという事。そこには生まれながらの格差が存在する。昔からそれはあっただろうが、Z世代などを見るにその格差は世代を追うごとに悪化して来たのではと思わざるを得ない。私はそれが起きるのはもう少し先だと思っていたのだが、既にそれは起きているのだろう。

 となれば何が問題か。少数派の富裕層がいくら子供を作ってもその数は知れている。一方で多数派の貧困層は子供を作らない、何なら結婚もできない。数のバランス的に子供など増える筈がなくなっていく。

 私が子供の頃はまだ大人になることに希望が抱ける時代であったが、これからの時代は多くの子供が子供時代からして社会に絶望、失望を抱きながら年齢を重ねていく。それはとても恐ろしい話であり、これまでに述べた「不景気に育った人間」の価値観をさらに酷くした人間がこれからの世代になってくる。少し前に話題になった「片親パン」*2だの「アフガキ」*3だのと言ったような言葉が子供たちから出て来るようでは本当に先が思いやられる。そこで悪いのは子供たちではない。そうした言葉が子供から自然と出てくるような社会である。

余談:下の世代を理解できない上の世代

 上の世代が言う「最近の子はすぐに諦める」、「根性論が通用せず行動にきちんとした理由が必要になる」と言うのは、前述した「ムダ=悪」の価値観を理解すれば少しは分かりやすい。

 そこには「してもムダな努力は最初からしても意味が無いので時間のムダ、切り捨てるべき悪」、「ムダの無い行動のためには明確な根拠が必要であり、感情的なもの(=精神論、根性論)に左右されてムダな行為をするのは悪」、という思考回路がある。良く言えば合理主義的。悪く言えば非・人間的な行動原理。もっとも人間である以上、そこから感情的な要素が排除し切れる訳もなく。前に書いたスマホゲーに課金する心理などはまだまだ人間的。

 どうして「子供はコスパ悪い」と思うかって?我々が自分自身を見れば分かるのさ!ガハハ!

 

*1:タイムパフォーマンス

*2:片親の子供がよく食べているパン

*3:アフリカの子供のように貧しい子供

鬼滅が流行った理由

 今さらながら「鬼滅の刃」が流行った理由について考察してみる。とは言ってもどれが理由で~という訳ではなく、これらの要素が複合してヒットに繋がったと見るべきで、何も理由は1つでないといけない事はない。

コロナ禍がインドア需要にプラスに作用した

 まずこれは外せない要因の1つだろう。コロナ禍でアウトドアどころか出かける事すら躊躇われる時期があった。それが人々を家の中でも楽しめる娯楽へと向かわせ、アニメや漫画といった業界に対しては追い風になったと言える。後述するが誰もが共通の話題に出来る、という点でも強い。

 コロナ禍で苦境にある自分自身を、苦戦しながらも鬼と対峙し続ける主人公と重ねた人もいたのではないか。

集英社マーケティングに力を入れた

 コロナ禍をチャンスと捉えたのかどうかは知らないが、集英社としてマーケティングにいつもより力が入っていたような印象は受ける。逆の立場で考えれば、後述するように幅広い層に売り込みやすい作品であったのかも知れない。

老若男女に受けやすい内容

 これもかなり大きい要因で、端的に言って「誰が観ていてもおかしくない」というのはもの凄い強みと言える。たとえば独身の成人男性が「俺、プリキュア観てるんだ」とプリキュアの話をし始めたら、大抵は引かれる。しかし鬼滅はそうでもない。誰が見て誰が話題にしてもおかしく無いし、それが「じゃあ観てみよう」と人々を動かした可能性は高い。ちょっとしたグロ描写*1やエロ要素*2はあるが健全な範囲の中。コロナ禍で話題に出来るような事も少ない中で、話しやすい話題の1つとなった側面もある。

 となればグッズも作りやすい。どこに出しても変な目で見られることが無いし、下手すれば主人公組の和柄だけでもグッズになり得る。それが例えば呪術廻戦であれば、テーマが「呪い」なだけに扱いが難しい。今や緑と黒の市松模様を持っているだけで「お?炭治郎か?」と思われるレベル。逆にそれに便乗した鬼退治というパチモン?グッズも展開されたりした訳だが。

 内容の説明もめちゃくちゃ簡単に言えば「鬼退治」の一言で済むので分かりやすい。明らかに子供向けという訳でもなく、極端にファンタジーでもなく、なろう系でもなく、恋愛要素も強く無い。キャラ造形も特定の層を狙ったような造形ではない(元の画風の問題もあるが)。世界観は薄暗いが、主人公は明るいし憧れさえ抱かれる。

 設定やストーリー自体が浅過ぎず深過ぎないちょうど良い練り込みなのも良い点で、「じゃあ俺もちょっと見てみようかな」と気軽に観られるレベル。最初からお涙頂戴で物悲しさ全開な訳ではないし、かと言ってFateのように登場人物の出自や「聖杯戦争とは何か」と言うような、細かい背景を調べてから入る必要もない。かと言ってキャラクターの背景が練られていない訳ではなく、知りたいと思えばそれなりのものが出て来る。

 総じて作品としてのバランスがよく取られている。強いて言えば大衆向けを突き詰めた感じで特定の層に刺さりまくるタイプではないので、オタクからして見れば物足りなさを感じる面はある。ただそこをufotableクオリティがカバーしているので結局はオタクも巻き込めた。それも強い。

ufotableがアニメ製作を担当した

 「老若男女に受けやすい」というのと並んで大きな要因と思われる。アニメはアニメでもその出来は制作会社によって大きく異なる。その中でufotableという大当たりを引いたのはとてもデカい。「空の境界」「Fateシリーズ」というダークファンタジーを描く上で培われて来た確かな技術が、鬼滅の世界を描く上でも確実に活かされていると感じる。

 単なる「子供向けアニメ」では無い、大人からも鑑賞に堪えうるレベルの画づくり。ちゃんとした声優の起用*3は流石と言えるし、作画がufotableで楽曲担当も梶浦由記、椎名豪のタッグで主題歌がLiSAやAimerはもはや一部の隙もない製作陣であり、「そりゃ売れるわ」というレベル。あまり興味がない人は分かりづらいかも知れないが、もし原作者で自分の作品の制作陣がそんな布陣だったらそれだけで大抵の作家が嬉し泣きするレベル。

 個人的に一番その異常性(良い意味での)を感じるのはカメラワーク。普通に使われるような誤魔化しのテクニックをあまり使用せず、映画のような視点移動、キャラクターの全身を映しつつも難易度の高いアングルでの描写がもはや週1で観られるアニメの域を超えている。戦闘シーンはさすがFateを描いて来ただけで文句のつけようが無い。

 よくある誤魔化しのテクニックは、キャラクターを画面にかなり寄せて激しい動きをさせて躍動感、臨場感を出す。あるいはかなり望遠で撮っている感じで遠近感を誤魔化しながら、派手な動きでそれっぽく見せるという感じ。その辺りを意識して他作品と見比べれば、ufotableのカメラワークがいかに異常かが分かる・・・はず。「寄り」ではなく「引き」で撮っている。

線の強弱の模式図

 また、キャラクターを描く線の強弱も原作マンガを意識して丁寧に作られている。アニメにおける線画は動かすことを考えれば当然ながら均等な線が一番楽な訳だが、鬼滅の刃では上図のようなマンガらしい強弱のついた線が描かれている。線にそうした強弱を付けながらアニメとして違和感なく動かすというのがもはや変態的。

 背景の作画やライティング、水の呼吸などのエフェクト的な面は3D CG技術も多用されているようで、最新技術とハイレベルな職人技が詰まっている。

 そうしたクオリティの高さ、観る側にとっては良いがもし同業者だったら本当に嫌だろうなあ・・・とすら思う。あれが「当たり前」のクオリティだと思われたらたまったものではない。あれがテレビで無料で見られるなんて、カローラと同じ値段でベンツのGクラスが売りに出されるようなもの。むしろ自分が原作者なら嬉しい反面、あの綺麗な作画と自分の絵を見比べて凹むかも知れない。遊郭編で画面に映るその辺の襖に描いてある絵ですら、どれだけの人間が描けると言うのか。炭治郎の羽織の市松模様ですらいざ自分で描いてみようとすると地味に難しい。

 声優に関して書けば本当にちゃんとした声優*4を各キャラクターにきちんとハマるように起用し、見る目が厳しい人間からしてもかなりキッチリしている。むしろ「こんな人がこんな役で良いのか」と驚きさえあるレベル。たとえば鱗滝左近次(炭治郎の師匠)役の大塚芳忠氏は68歳の大ベテランで、誰もが洋画などでその声を聴いたことがあるだろう。お堂の鬼(最初に殺される個体名すらない雑魚)役は緑川光氏。出演作品がかなり多い有名声優でファンからはグリリバの愛称で親しまれる。下弦の鬼の声優もなかなかのもの。

 制作陣として ・作画 ・声優 ・音楽 全てが最高峰だからこそあれだけ売れたと私は思う。

余談:

 一部の人間は刀鍛冶の里編まで1年という製作期間について長いと言っているようだが、あれだけのクオリティを保ちながら、下手すれば更にクオリティを上げて来る可能性も考えれば1年は十二分に短い。アニメ1期の話数が大体12話として、本編を25分とすると映像は300分=5時間分ある訳で、映画で言えばだいたい2.5本分に相当する。それをあのクオリティを保ったまま1年で製作するのだから短い。短いったら短い。ちなみにFate/stay night:HFの映画は1本あたり2かかっている。3部作で6年がかり。1年で製作がいかに早いかお分かりだろうか。

 また、炭治郎の市松模様の羽織は自分で描こうとすると意外と面倒くさい。市松模様はシンプルだがシンプルだからこそ誤魔化しが利きづらい。線で言えば直線の組み合わせで、それを羽織という局面に違和感なくあらゆる角度、状態で落とし込まなければいけない。その辺り、炭治郎に限らず登場人物の和服の模様はよくあるテクスチャ貼り付けではなく製作スタッフの手書きであり、そのための研究マニュアルまであると言うのだから凄まじい。

サムネ用エセ日本刀(AI製)

 

*1:主に炭治郎一家惨殺や鬼殺害シーンなど

*2:甘露寺蜜璃とか甘露寺蜜璃とか大人禰豆子とか

*3:話題性だけで下手なタレント起用なんかじゃなく

*4:それもこんな冒頭で殺される鬼にこんな豪華な・・・というレベル

スマホゲーに課金する心理

 書き散らし。yahoo!ニュースで下のような記事を見かけたのでそれについて

news.yahoo.co.jp

(リンク切れ対策に記事タイトルだけでも書いておく:課金、課金、負け...また課金 ゲーム依存、月20万円を投じた青年の今(西日本新聞)

課金までの流れ

 私自身、スマホゲーは一時期やっていたのでその心理に関する考察はある程度できる。ただ全く課金はしていなかったので、今でもただの電子データに何十万、下手すれば何百万とつぎ込んでしまう人の心理はあくまで推測の範囲でしか分からない。それは先に書いておく。

 まずコストに厳しい若者がそうしたゲームにハマる原因の1つは「入門のしやすさ」。大抵のゲームが”買い切り”ではなく”基本プレイ無料”であり、ゲーム内に課金要素があるとは言え少し遊ぶだけなら無料で出来る。それも今やほぼ誰でも持っているスマートフォンで遊べるのだから、敷居はかなり低い。PlayStationが欲しいだのSwitchが欲しいだのと親にねだらなくて済む。記事にもあったように友達が遊んでいるから自分も、ということもよくある話。まずそうしてコストに厳しい若者の生活の中にスマホゲー、ソシャゲは入りこんで行く。

 しかしスマホゲー、ソシャゲの類はバランスがうまく作られていて、基本プレイ無料に偽りは無くとも楽しく遊ぼう、活躍しようとすれば課金が必要になる。そこでゲームに娯楽としての魅力を感じさせる=”ハマる”状態を作ることが出来ていれば、そのゲームをもっと楽しむために、あるいはゲーム内で活躍するために多少の課金はしても良いと思わせることが出来る。ゲームシステムがそうデザインされている。Pay to Winという言葉があって「勝つためには金を払え」という訳である。

 ゲーム内で楽しく遊ぶ、活躍することに魅力を感じれば感じるほど、若者にかぎらず人間は金銭感覚が麻痺していく。特に「ガチャ」というシステム。絶対に強いキャラが出る訳ではないが、お金を払ってガチャガチャを回してレアなキャラクターが出ればそれでゲームが有利に進められる。それが射幸心を煽って煽って煽り倒す。その辺り、パチンコ依存症と大差ないのだろう。勝てば楽しい、それが続けたいからお金を使う。ゲーム内で強いキャラクターを持っていれば友達に自慢できるし、協力プレイ機能があれば見ず知らずのプレイヤーたちから必要とされる存在になれる。リアルではそうでない人間でも、ゲーム内では課金によってある程度のステータスを得ることが出来る。ゲーム内では自尊心を満たすことが出来る。そう錯覚する。

 サービスが終了すれば後には何も残らないのに。

誰が悪いのか

 かと言って、スマホゲーにハマる人間を頭ごなしにバカにしようとは私は思わない。悪いのはそうしたゲームにハマる人間ばかりではないからである。前述したようにゲームとして、サービスとしてそう作られているのだから当然、それを作る側も褒められたものではない。パチンコ同様、そうした娯楽を売る側にも問題がある。むしろ立地条件や年齢に制限が無い分スマホゲー、ソシャゲはパチンコ等より悪質とさえ言える。ある種の依存性、賭博性があるにも関わらず間口が広過ぎる。そうしたゲーム・サービスのデザイン、収益構造を許容して来た消費者側にも問題があると言えばそれもそうなのだが、そこにツケ込んで好き放題やっている側に問題が無いとは言わせまい。

スマホゲーに課金してしまう若者に対する誤解

 一部の人間はスマホゲーに課金する若者について「ゲームに使うだけお金に余裕がある」、「それだけ余裕があるのが羨ましい」と思っている節がある。が、それは見方を誤っている。

 記事で紹介されているダイキさん(仮名)は専門学校に通いながらアルバイトで稼いだお金をほとんど”課金”し、足りなくなって家族の財布から盗みまで働いている。そこに余裕は無い。「親が金持ちで金なんて無限にあるから」そうなった訳ではないし、社会人であっても「お金があり余って仕方ないから課金している」という話は聞いた事がない。むしろ私自身は会社で「先輩が昼飯を抜いてそのお金を課金している」という話は聞いた事がある。つまり「余裕があるからゲームに課金する」、あるいは「ゲームに使うだけの余裕がある」という見方は誤り。そこには「依存症」が確かにある。

 以前にも趣味の多様化に関して同じような事を書いたが、若年層は上の世代が思っているような(結婚や子育てをしてなお)趣味に使えるだけお金に余裕がある」訳ではない。「ライフステージが上がる(=結婚して子育てする)レベルの収入は無いが、1人で暮らせて多少は趣味にも使えるレベルのお金はある」という半端な懐事情がある。端的に言えば「結婚も子育てもしていないからこそ、その分少しは余裕がある」という程度。上の世代から「余裕がある」と言われるような結構なご身分からは程遠い。そもそも若者にお金の余裕があるなら「若者の~離れ」とやらはとっくに死語になっている。そんな言葉、生まれすらしなかっただろう。

余談:よく聞く言い訳に対して

 スマホゲーに課金することに関して、「レストランで美味いもの食べるのと何が違うの」という言い訳はたまに聞く。若年層からすれば上の世代のそういう行為とスマホゲーの課金は同じようなもの、食べれば無くなるようなものでも一時の娯楽のために多少のお金を使うくらい良いじゃないか、という言い分は確かに一理ある。

 しかしレストランで美味いものを食べることに中毒性や依存性はそこまで無い。月に何十万を外食に使う人はかなり珍しいだろうし、食事処に「ガチャ」要素は無い。300円払って高級なお寿司が出てくる確率は小数点以下をどこまで追いかけてもゼロ%である。その逆もしかりで20万円払って300円レベルの弁当が出てくる確率も(よほど悪質でない限り)同様にゼロ%。根本的に違う。

ゲームに課金する人へ

 ゲームに課金するとすれば18歳未満ならお小遣いの範囲で、18歳以上なら節度を持ってやりましょう。というかサ終*1すれば本当に後には何も残らないものにお金かけるのは勿体ないと私は思う。長い目で見るという事をすべき。ゲーム内で得たステータスが現実に反映されるとか、一生ずっとそれが付いて回るのであればお金をかける価値はあるだろう。あるいはそれこそちょっと良い食事くらいのお金で、それなりのものが得られる場合(DLC,ダウンロードコンテンツなど)か。何にせよそれより現実で楽しめる、実体のある趣味をする方が後々ためになる。私自身、高校時代からMinecraftというゲームを10年以上やっていたが、お金こそ使わなかったもののそれを後悔してもいる。確かに楽しかった。しかし後には何も残っていない。現実で使えるスキルもステータスも何1つ無い。言い訳をすればアトピー性皮膚炎の苦しみから逃れる、気を紛らわせるにはそれが良かったのだが・・・。

*1:サービス終了

新春お題:2023やりたいこと

特別お題「わたしの2022年・2023年にやりたいこと

 書き散らし。いきなり世知辛い話題も何なので「2023年にやりたい事」を。

Adoさんのライブに行く

 これはチケットが取れるかどうかの運次第ではあるが、ぜひともAdoさんのライブに行ってみたい。Kalafinaのライブに行きたい行きたいと思っていたら行けない内に解散してしまったので、そのトラウマもある。推しは推せる内に推せ(至言)。Kalafinaファンの頃はまだ「お一人様」に抵抗があったのでグズグズしていたが、そうしている内に解散してしまったのが本当にトラウマでもはや抵抗は無い。お一人様上等。まだ20歳であれだけ活躍している人の輝きを生で見てみたい。

 ちなみに世間一般のイメージ(うっせぇわ)と本人の人柄はかなり違う。個人的な見方からすれば完璧主義者で理想が高い、自己肯定感が低い、真面目で謙虚かつしっかりした歌い手としてのスタンスを持っている人。マツコDXからは「暗い女ね」と言われた感じ(その後「でも暗い女はいい女よ」とのフォローが入ったが)。

 「Adoって消えた?」などと言ってる失礼な輩がいるらしいが、昨年もっとも聴かれた歌手とも言われ、2022年末からツアーで全国各地を周り歌いまくりご当地グルメ食べまくりしてる人にそれは無い。そう言ってる奴こそ世の中からすれば消えてるレベル。

 ちなみに「うっせぇわ」でのメジャーデビューが2020年10月・・・え??もう2年ちょい経ってるの!?

マヌルネコ遠征をする

 あまりここには貼れていないが私はマヌルネコ大好き人間で*1マヌルネコの写真を撮りたいがためにフルサイズミラーレス一眼と白いレンズも買ってる人間なので、今年こそは北海道か埼玉あたりのマヌルネコに会いに行きたいと思っている。コロナも落ち着いて来た?し。2019年には一人で奈良から栃木まで遠征はした。

 マヌルネコを崇めよ。ちなみに飼えません。飼おうとすべきでもありません。何なら病気に弱いのでニンゲン風情が素手で触ることも許されていません。動物園ですら間接飼育という手法を取るレベル。でもかわいい。モフモフなワイルドキャット。

副業を何かしら始める

 できれば何かしら始めたい。いい加減に何かしないとヤバイという焦りを感じる。真面目に働いているのが本当にバカらしい世の中で、いつまでも会社の給与収入1本で行くのは厳しいかも知れないと改めて思っている。

 なので何かしらの副業というか、お金になりそうなことは見つけたい。転売ヤーが流行るのもよく分かる(かと言って転売ヤーになりたいとは思わないが)。それにしても本当にろくでもない世の中。こんなんで子供なんて増えるか。なーにが異次元の少子化対策だバーカ。頭ん中異次元かよ。

余談:異次元の少子化対策とやらについて

 新年早々に岸田総理は異次元の少子化対策だの、出産一時金の増額だのを打ち出しては誇らしげのようだが、その財源のためにまた増税社会保険料の増額などが来るのかと思うと本当にゲンナリする。そうしや経済的な面から見ても、物価高騰でせっかくデフレ脱却の機運が高まりつつある経済へ冷水をかけるようなマネをする意味が分からない。

 あまり強い言葉を遣うなよ。弱く見えるぞ*2

 

*1:全人類滅亡ボタンと全マヌルネコ滅亡ボタンどちらかを押せと迫られたら迷わず前者を押すくらい

*2:BLEACH, 藍染惣右介

保守とは何か

 書き散らし。杉田水脈政務官が辞表を提出した事に関して、Twitterで一部勢力が「岸田は貴重な保守派議員を守れなかった」と批判しており、個人的には改めて保守とは何かを考えさせられた。

www3.nhk.or.jp

日本における保守とは

 辞書的に言えば「保守」というのは従来からの伝統、習慣、価値観などを維持し、それらに対する変化に反対しようとする思想のことであるが、日本における保守(特にそれを自称する人間)に関して言えば、そこに復古主義愛国主義民族主義の側面が加わる。特に自民党やその支持層に見られるのは、大日本帝國時代への憧憬であるように思う*1。「構造改革」や「抜本的改革」といった言葉が出てくる時点で自民党は辞書的意味での「保守」からは程遠く、むしろ憲法守れと叫んでいる人間の方が辞書的な意味での保守に近い訳だが、そうした層が「左翼」とされる現状はなかなか紛らわしい。

杉田氏は「保守」なのか

 「保守という名のもとに憎悪を撒き散らす者」を保守と呼ぶならばそうなのだろうが、氏の発言は日本らしい「保守」のあり方(権威主義的、事大主義的でその時の時世に柔軟に対応する「従う政治文化」)からしてそうとは言い難い。LGBTQに対する発言も、国連女性差別撤廃委員会に関するブログでの書き様も、政治家として思想的にバランス感覚に欠けている。

 結局、氏の言動は「保守」的ではなく後述するような民族主義愛国主義と、それに根ざした排他的な偏見によるものでしかない。

保守の皮をむいてみれば

 どういう観点から見れば杉田氏は「保守」たり得るのか。LGBTQや外国人あるいはその文化を異物として排除し、純粋な日本らしさを求めるという点はあるが、それは民族主義愛国主義的であり厳密に言えば保守とは少し違う。いわば杉田氏やそれを支持する人間は、民族主義愛国主義を「保守」という言葉でオブラートに包んでいるのだろう。あるいはその自覚すら無いか。それが「保守」だと思いこんでいるか。

 そして彼らは民族主義愛国主義の全盛期であった大日本帝國時代の在り方、価値観に根ざした政治を行うことが「保守」であるとも思っているのだろう。かつての(ある意味での)全盛期の真似をすれば日本が良くなる、それで国が良くなるならそれが愛国であり、そうした流れを支持することこそが愛国心であり、第二の大日本が実現した姿こそが「美しい国」だ、と。

 実際は民族主義愛国主義で失敗して原子爆弾を2発も落とされて今に至っている訳だが。愛国だ、美しい国だと言うまえに歴史の教科書を読み返すべきである。まずもって大日本帝國が実現した時とは何もかもが違う。世界情勢が違う。日本という国に戦前の勢いは無いし、現代の日本においてどこぞの神社で苔むしてそうな古臭い価値観は受け入れられない。社会的にそうしたエセ保守的な価値観は広まらない。

 むしろ自民党は日本国民を広く困窮させて日本人を減らし、格差を拡大させて文化的な豊かささえ破壊している。そうした政党を支持している人間や、そうした政党の中で過去の栄光に囚われ続けている人間が「保守」とは嗤わせる。それはただの愚かな破壊者でしかない。私は彼らを「美しい国民」とは思わないし、「美しい国」とやらを作れる人間とも思わない。

なぜ彼らは愛国主義にハマるのか

 というのも私なりに観察し、考えてはいる。日本人というアイデンティティ固執し、いわゆるサヨクと同じくらい現実から目をそむけながら、実際に旧統一協会という*2カルトと仲良しこよしな自民党をこの期に及んで支持し続ける彼らは一体何なのか。何がそこまでさせるのか。

 つまるところ、彼らにとって誇れることが「自分が日本人であること」くらいしか無いのでないか。日本というアイデンティティに縋り、よくある日本礼讃番組を見るような感じで、勝ち馬に乗った気分で「自分は優れた民族の一員なのだぞ」と思いたいだけなのではないか。それが民族主義愛国主義国粋主義へと繋がっていくように思える。それが悪化すれば日本会議だの何だのといった団体、自民党における「保守」を支持するようになるという感じだろう。

 たまに「本当に日本人か?」、「~じゃないなら日本人じゃない」という文言も目にするが、そうした言葉が出て来る思考の根底には「日本人ならこうあるべき」という思想と、そこから外れた者、自分たちと意見の異なるものは「日本人ではない、あるはずがない」というある種の選民思想的な偏見がある。それは日本人という民族にありもしない理想を抱いている証左であり、現実から目を逸らしている表れにほかならない。

 悲しいかな、そうした「日本人であること」くらいしか誇れることが無い人間は本当に中身がない。自分自身というものを国やその在り方に依存しており、1人の人間としての価値基準も物事の理非も思考能力も持ち合わせていない。「防衛のため」と言われれば増税も喜んで許してしまう連中などその典型。最悪なのは、そうした人間に支持されるような同じように中身の無い人間が政治の場に実際に居ることである。

 私もそこまで人に誇れるような事は無いが、落ち目の国の国民とはここまで情けないものかと涙を禁じえない。

*1:そのくせ「富国強兵」という思想は知らんようだが

*2:彼らの大嫌いな韓国発祥の