ヤマネコ目線

大体独り言、たまに写真その他、レビュー等

徴兵制度の意義

 昨日、安全保障上の徴兵制度の意義についての記事を見かけたが、中身を見ると個人間の争いを見た上での感覚的な話でしかなかった。

個人の延長で語ることの無意味さ

 当該記事にコメントするのはもう十二分に他の人がしているのであえてしない。引用もしない。まずその記事では筆者が留学中に目の当たりにした外国人同士のケンカと、その時に感じたことが主に引き合いに出されている。

 確かに徴兵制を敷く国の留学生は屈強な者が多いだろうし、それに気圧されるのも仕方ない。しかしそれはあくまで個人間の話であって、国家間の話へと線形的に拡大して良いものではない。そこには共通するものがあるかも知れないが、それだけで徴兵制自体の意義について語るのは無理がある。単純に個人としてその国の国民に勝てないと思うのと、国家としてどう接していくべきかはまた別の話だ。

徴兵制度のその他の側面を論じていない

 徴兵制度は採用している国とそうでない国があるが、現代の安全保障、軍事においてなぜそこが分かれているのか。そういった視点がまず欠けている。

 現代の武器、兵器は高度化しており、それを扱う人材の育成・維持にもそれなりのお金がかかる。それはつまり無闇やたらに兵士を徴発しても組織としての質が下がることを意味している。いくら兵士が居たとしても、ろくに給与が出せなかったり、与えられる武装が無かったり、訓練が出来ないとなれば全体の士気にも影響を及ぼす。徴兵制のメリットは今やほとんど無い。

 徴兵制度自体が抑止力になり得るかどうかを考える時、その目線は1国民ではなく国家目線であるべきだ。そこで考えた場合、前述した徴兵制度を採用しない理由を考えれば、数だけ多く質の低い軍隊と、少数でも質の高い軍隊のどちらを保有するのが良いのかは明らかである。それは湾岸戦争イラク戦争の結果を見ても明らかだろうし、徴兵制を敷いてもそれに見合うだけの戦力を維持できないとなれば、そもそもやる意味がない。

本当に必要なもの

 日本にとって本当に必要なのは、戦争に負けたことによる過剰な軍事忌避からの脱却、本当は何が悪かったのかを見定め、今後の安全保障に活かすことだ。徴兵制など敷かなくともまずそれだけでかなり変わる。

 まずもってあらゆる業界から軍事忌避を一掃すること。それが先決である。確かに日本は戦争にこっぴどく負けたし、その悲惨さも味わった。だからと言ってこれまでも、これからも世界は日本にだけ優しくなったりなんかしない。日本がどれだけ意固地になって軍事研究を拒み続けても、世界はそんなの知らぬ顔をしてどんどん先へ行く。結局、日本は軍事面において世界から取り残されつつある。世界の軍事情勢を見れば今さら日本が科学技術大国だなんて笑わせる。その現状は精神論にかまけてろくに兵器開発をせず、多くの兵士と国民を為す術なく死なせた帝國と何が違うのか。度が過ぎた平和主義と精神論は信ずるに値しないものを信じ、非現実的な理論のもとに害悪を成す点において何ら変わりがない。

 また、旧日本軍が何を誤って負けたのかは明白である。自国の国力、軍としての力を過信してアメリカのような大国にケンカを売り、圧倒的工業力と物量で押し潰された。日本軍よりも遥かに優れた武器、兵器を生み出したナチス・ドイツですらそうであったことから分かるのは、物量には敵わないということである。前述したように現代戦においては物量は全てではないが、互いの技術力が拮抗あるいはそれに近い状態にあるならば最終的にモノを言うのは物量であり、その点、単独で言えば日本は中国、ロシアいずれにも勝てる見込みは無い。それこそが第二次世界大戦で日本が得た教訓であり、だからこそ今現在、アメリカを同盟国として軍事的均衡を保っている。

 しかしアメリカがいつまでも最強の軍事国家、世界の警察であり続けられるとは限らない。アメリカ軍の装備がいつまでも最も優れたものである保障もないし、本当にいざと言う時、アメリカの兵士が日本を守るためにどれだけ必死で戦うだろうか。我々は本当にいつまでも「アメリカ人の友人」を頼りにして良いのだろうか。そこを改めて考えなおし、それこそ国として軍事面で自助をしていくべきだろう。まだ科学技術立国であると思ってるならそれくらいの意地は見せて欲しい。

これからの軍事

 現代の戦場において、もはや無人兵器は必要不可欠なものになっている。万が一撃墜されても人的損害が出ない兵器は、人口が減りつつある日本こそ積極的に開発するべきものだ。無論、中国も開発している訳で、このまま手をこまねいていれば、中国の無人戦闘機が日本のパイロットを殺害ということが十分起こり得る。相手は機械で壊れても大した損害はなし、こちらは人間、それもパイロットになるような優れた人材を失う、その違いは大きい。

 それに併せて喫緊の課題がドローン対策である。無人兵器が一般化した今、小型で低コストのドローンに対して過剰な武器・兵器で対処することはあまりにコストパフォーマンスが悪く、各国が対抗兵器の開発を急いでいる。そんな中、日本は独自の無人機もそのような対抗兵器もウワサさえ聞こえてこない。もしこのような状態で有事の際、中国から無数のドローンが飛来すればどうなるか。迎撃し切れず民間人やインフラに重大な損害が出るのは明らかだ。

 国産の武器・兵器が高価過ぎるのも、日本の軍事力を弱めている。武器輸出、兵器輸出は競合が多く前途多難だが、それを推し進めなければ自国で武器・兵器を開発する力があっても、ろくな数を配備できない。この際、中国に対抗し得るインドなどの国に積極的に売り込んででも価格を下げて、数を揃えていくのが重要だろう。

結婚しない若者がなぜ多いのか

 分かってない人向けの書き殴り。

広がる格差、貧困

 社会人になってもう5年経つが、給与はあまり上がっていない。というか学生時代に思い描いていたような額ではまったく無い。ところがそんな私でも、Twitterの知り合いと話をしたり、県内の年代別平均年収を調べたりするとまだマシあるいは平均的であることが分かる。世の中の年収分布を見ても、そんなに珍しい部類でもない。

 つまり、貧しい部類だと思っている自分自身が実は今の世の中の平均、多数派であることが分かる。年上の人からまだマシとさえ言われる。その時点でそりゃ結婚する人は減るわなと思うわけで、世の女性陣が求める年収に届くのは一体、何歳くらいの人なんだろうと思わざるを得ない。

 貧しいと自覚している人間が、果たして誰かと結婚したい、結婚できると思うだろうか。中には愛さえあれば関係ない尊い方々もいるかも知れないが、基本的に結婚相手に財力を求めるのが女性というものであるし、男としてもそれは理解している。ともすればもう、自分に財力がない、年収が低いと自覚するだけで、結婚を諦める層は確実にいる。そもそも相手一人幸せに出来ない、幸せに出来る自信がない。子供なんてもってのほか、だったら結婚する意味ってなんだろう。もちろん子供を産み育てるだけが結婚の意義ではないのだが。

 子供を作るとすれば、そこには当然かなりの費用が発生する。今の若者の大多数は、その金額を捻出できる自信がない。というよりも出来ないと冷静に自己分析し、自覚している。日々を生きるので精一杯、年金は払っているけど2,000万円以上の払い損、そこで子供を作れば思わぬ負債になりかねない、そういった意識が今の少子化を招いている。子供はきちんと育ててこその子供であって、日本人であればその辺の良識はあるものだ。そこできちんと育てられない、しかるべき教育を受けさせてやれない、幸せな環境で育てるだけの原資がないのに子供を作るのはもはやそれ自体が虐待である。

 結婚した方が生活が楽になるという人もいるが、生活を楽にするために結婚しよう、と言うような相手と一体誰が結婚などしたいのだろう。もはや結婚して子供を作る、家庭を持つなんてのはそこそこお金持ちがするべき道楽であり、分不相応に手を出して貧しくなるかいっそ持たずに人生設計をするかの選択を迫られている。何も考え無しに腰を振れるサルは人間にカウントしないのでここでは論じない。

転職への不安

 給与低いっていうなら転職しろよ、と言われるかも知れないしそれはもっともなのだが、当然ながら転職したからと言って今より給与や環境が良くなるとは限らない。業種、職種にもよるしスキルにもよるので一概には言えないし、今はまだコロナ禍でどこも人減らしをしている。ともすれば転職しようとすること自体が大きなリスクになる。レールを外れた者、弱者に厳しい日本社会では、そのような方向へ落ちるリスクを回避したいと思うのは普通だ。将来への漠然とした不安に駆られる若年層ならなおさら。

 賃金水準だけで言えば、もはや海外へ日本人が出稼ぎに行く時代に入っている。先進国の中でもダントツで給与水準が低いデータがそれを物語っている。思えば私が高校生の頃だったか、Googleが「優秀な人材には新卒で年収1,000万円」と言い出したのは。特に羽振りがいいIT業界の話とはいえ、もうかなり前から日本は国として差をつけられている。日本が勝手に転げ落ちていったという方が正しいか。

コスパ重視の価値観

 生まれてこの方、この国が悪くなる一方、不景気へ傾く一方の社会で育った人間は「コスパ」重視の価値観へ傾いている。何をしようにもお金が足りない、足り苦しい、いかにして節約するか。子供の頃から植え付けられた「いかに安く良いモノを買うか」といった価値観は、結婚というコスパ最悪のライフイベントにも当然向けられるのだ。

 買い物を人間に置き換えるなら、いかに少ない原資(=自分自身)でどれだけ良い相手を見つけられるか、だろうか。誰も彼も自分にとって都合の良い相手を求めている。女性は特に選ぶ立場だ。身長は170ないと男じゃない、年収は少なくても500万以上がいい、それでいてイケメンがいい、性格も良くないと嫌。一体どれだけの人間が結婚できるのだろうか。あるいはしたいと思うのだろうか。

格差の是正なくして改善なし

 これまで「若者の~離れ」と言われる度に、若者の間では「お金の若者離れ」が指摘されて来た。どこまでも安いものを求める我々消費者のせいもあってモノが高く売れない、値段設定を高くするとそもそも売れないので企業は安く作ることにこだわる、必然的に給与が下がるといった悪循環から、いい加減に抜け出さなければならない。そうしなければ、結婚に限らずあらゆる面で若年層が貧しいがゆえの悪影響が広がるだろう。というかもう、広がっている。世の中がどうあれ価値観がどうあれ、お金が全てでは無いにせよ、お金さえあれば何とかなることだってある。

まともな人間=結婚しているはもう古い

 余談。世の中を見ればこの価値観はもう古いことが確実に分かる。というよりも冷静に自分の近くの人なり何なりを分析して見れば、「まともな人間なら結婚していないとおかしい」という認識は明らかな間違いだと気づくだろう。むしろなぜこんな価値観が根付いているのか不思議ですらある。

 私の職場の関係者にもその反証がいるが、実に人間的に出来が悪い。そんなヤツでも結婚して子供がいると考えると嫌になるが、結局そういう所は出会いがあるかどうか。ある種の運要素が強いのだろう。時代の流れもあるし、そういうことが当たり前に出来る時代に良い人と巡り会えただけなのに、それを自分の実力のように思われてはたまったものではない。

欠陥人間

 言峰綺礼というキャラクターがいる。Fate/stay nightという作品の登場人物で、聖職者の家に生まれながら「人の不幸にこそ幸福を感じる」という外道。しかし人としての良識はあり、聖職者の家に生まれたこともあって自身が本当に望むもの(=幸せ=他人の不幸)と、人として、神父としてあるべき姿との板挟みになって苦しんで来た悪役。第4次聖杯戦争ではその辺が悪い意味で吹っ切れてしまうのだが。

 そんな外道神父に、私は親近感を感じてしまう。「人の不幸こそ我が幸福」というほど腐ってはいないが、Fate/stay night Heaven'sFeel第3章での独白には思うものがある。

「お前達が幸福と呼ぶものでは、私に喜びを与えなかった」

「幸福とは苦しみであり、絶望こそが歓びだった。その在り方は、生き物として悪しきものだと理解していた」

「ひどい欠陥だ。外道であっても良識が備わっていたのだ」

幸福とは何か

 私自身、昔から幸福という感覚があまり理解できない。幼少期や小学校、中学校ではいじめられる立場だったのと、それに必死で抗って来たからか、いつも私の中にうずまく感情は負の感情ばかりだった。純粋に面白い、楽しいと思うことはあるし、笑うことだってあるのだが、それでも先生には「笑わない子かと思った」と言われたこともある。私の中では「幸福を感じる受容体が壊れている」感じがする。

 その点で、前述した言峰綺礼に親近感を感じるのだろう。他人が当たり前のように感じている感覚が理解できない。しかし良識はあるし、一般的にはどんな事が幸福なのか、幸せだと「感じるべき」事なのかも理解できる。生物として求めるべきものも理解しているし、そういう欲求は当然ある。

 しかし私自身、幸福を感じたことは実感としてほとんど無い。そしてこれからも感じられるか分からない。私自身が一般的な幸福に値するかと言われればそうでもないし、それを客観的に理解している。生物として何が正しい道かは理解しているが、それが私にとって正しい道かと問われればそれは違う。ひどい欠陥だ。人間として大事な部分が壊れているくせに、良識は未だ備わっているのだ。

生きるとは

 私は私自身に絶望している。しかしそれでも生きる事は止められない。それだけはハッキリしている。自分自身に絶望しても、世界に絶望したわけではないし、生きてて良かったと思う事はある。マヌノレネコという素晴らしい生き物に出会えたし、Fateの映画はこれまで見たどんなハリウッド映画よりも素晴らしかった。まだまだ世界は生きるに値する。まだまだ魅力に満ちている。

 親や親戚は私に「幸せになって欲しい」という。しかし彼らがいう幸せは私にとっての幸せであるとは限らない。私は何も感じられないかも知れない。

 幸いにして幸せ、幸福の形は多様化して来ている。私にとっての幸福の形が、他のそれと違ってもそれはそれで良い筈だ。だからこれまでも、これからも私は私なりの幸せの形を模索しながら生きる。むしろそういった生き方しか出来ない、という方が正しいのだろうが。

神には祈らない

 私と言峰綺礼の最大の違いは信仰だろうか。彼は曲がりなりにも神父として生き、経典の聖言による攻撃も出来るのだから、その信仰は本物だったともされる。

 しかし彼が救われる事はない。ある意味リアルだ。奇しくも言峰綺礼を演じる中田譲治氏が過去に演じたアーカードの言葉が思い浮かぶ。

「神は、助けを乞う者を助けたりしない。神は、慈悲を乞う者を救ったりしない。それは祈りではなく神に陳情しているだけだ。」

 結局、祈りなどというものは「何も出来ない人間が、何かを成した気になりたいがための無益な行動」でしかない。そこには何の意味もない。あったとしてもそれは「意味があると思いたいだけ」である。

 私の母は、寺の生まれで信仰心が強い。結婚してから精神を病み、妙な宗教にハマって私も巻き込まれて来た。その中でいろいろなものを見たから言えるが、この世界にそんな「人間にとって都合の良い神などというもの」は存在しない。そんな幻想を信じるくらいなら、そんな影にすがるくらいなら、私は自分自身に絶望していた方が心地が良い。これまでも、そしてこれからも絶望の縁を歩いて生きて行く。

 

そうだ、マヌノレネコに会いに行こう。

立憲の消費税減税の見通しは甘い

 立憲民主党は、消費税減税(5%への引き下げ)を打ち出している。これ自体は歓迎すべきことだ。消費税は逆進課税であり、格差拡大を助長している。

代わりの財源は

 旧民主党がどうこうは一旦置いて、代わりの財源はあるのだろうか。所得税法人税、資産の税制、社会保険料負担を見直すとは言うが、これまでの彼らの動向を見るに、本当に賢い税制改革が出来るのかは疑問である。もちろんこれらの税制強化は歓迎できる面もあるが、逆に言えば他には何をするのだろうという疑問が湧く。

 率直に言えば事業仕分けは復活させて欲しい。科研費を削るような愚かな真似はして欲しくないし、アベノミクスの検証なんて今さら言ってないで、自分たちの過去の過ちから学んで欲しい。まずもって今の予算規模がおかしい。コロナ禍があるとは言え、それ以前からも毎年のように過去最大の予算が編成されて来た。いい加減に各省庁の予算合戦で膨れ上がった予算配分を削らせるべきである。

 サービスデザイン推進協議会のような訳の分からない無駄な幽霊組織の廃止や、電通パソナの排除もして欲しい。再委託を法で禁止すべき。安保法案廃止だの言ってるならまずそっちを打ち出してくれ。行政の実務が再々々々委託なんかされて、中抜きで無駄な費用がかかっているならば、そこで行政の実務の内製化も打ち出すべきではないのか。

 結局、立憲民主党は綺麗事、人気が出そうな事を言うばかりでその実現手段が素人でも簡単に思いつくようなものでしかない。これまで自分たちが批判して来たものを引っ張り出して更にそこから発展させるような内容がない。圧倒的に乏しい。だから信用されない、したくないのだ。

立憲民主党は信用できるのか

 そもそも論としていつまでもこれがある。旧民主党から彼らは変わっているのだろうか。現政権への不満を煽り、自分たちの実力を過大評価して能書きを並べ立てて政権交代を狙う。それが変わっているとは思えない。

 何より経済や福祉といった一部で彼らの言い分を支持できても、安全保障、外交面で甚だ大きな懸念がある。近年特に激化する中国の海洋進出、その中で彼らが政権を握れば一体どうなるか。尖閣での中国漁船衝突事件とその映像隠蔽は、未だに多くの有権者旧民主党へのある種のトラウマとして残っているだろう。そこに立憲民主党が共産、社民、れいわと協力と来れば、安全保障への懸念はもうこれ以上ないほど大きい。立憲はもともと安保法制に反対であったし、野党4党の政策協力には民間の安保法制反対の団体も絡んでいる。

 いくら消費減税や富裕層への課税強化などと甘い言葉を並べても、その一方で外交、安全保障で国益を大きく損ねる可能性がある以上、立憲民主党はいつまでも支持されない。

野党共闘などいらん

 野党共闘を私は歓迎しない。彼らは政権奪取という点で協力出来ても、その後の協力関係が危ういからだ。安全保障面でも明らかに良い方向には行かない、それが目に見えている。そもそもなぜ立憲民主を党名に掲げる政党が、共産主義社会主義を掲げる政党と手を組むのか。むしろ支持しづらくなる一方だと思うのだが。

 支持率で言えば共産、社民、れいわなどワゴンセール品のようなものだ。ワゴンセール品を4つまとめてセットにしたらミリオンセール、そんな事があり得るだろうか。なぜ政治の世界ではそれが出来ると思うのか。むしろ自分が意地でも支持したくない政党と政策協力するなどと言われれば、支持はますますしづらくなる。立憲民主党は明らかに道を誤っている。

共産主義は人間の本質に反する

 独り言。

 なぜ共産主義などという時代遅れの思想が、未だにこの日本に残っているのだろうか。不思議でならない。かつて共産主義の実現を目指した政治体制がことごとく失敗し、飢餓や虐殺を生んで来たのに。日本共産党の政治家たちは「反共など時代遅れ」と言うが、私からすれば共産主義こそ時代遅れも甚だしい。悪いものはいくら時が流れようと悪いものに変わりはない。

人間の本質とそもそも反する共産主義

 人間の本質とは強欲である。もっと時間が欲しい、お金が欲しい、良い人とお付き合いしたいという直接的なものはもちろん、国を良くしたい、より暮らしやすい社会を作りたいというのも突き詰めていけば、その原動力は欲望である。逆に言えば欲望こそが人類発展の原動力であり、時に身を滅ぼしかねない力でもある。

 そして共産主義はその欲望、人類の本質に反している。確かに誰もが同じように、平等に富める世界は素晴らしいかも知れない。しかしそこで個人が「他の人よりも豊かになりたい」と思う気持ち、すなわち個人の欲望を抑えられる保障はどこにもない。それは一般市民にとどまらず、政治体制を維持する側にも当然言えることであるし、そこで欲望が抑えられないから、これまで共産主義を目指した国家では腐敗が蔓延してきた。

 その国の国民が政治運営を担う人間すべて含めて、己の欲望を完全にコントロール出来るなら共産主義は成功するかも知れない。しかしそんな事は明らかに非現実的。そこをどうにか抑え込もう、人々を統制しようとして独裁、全体主義に走るのだろう。

 日本共産党の志位委員長は全体主義や独裁主義とは無縁だと言っていたが、ではどうやって個々の人間の欲望を抑え、平等に富める社会を実現しようと言うのか。

 元より結果だけ見ても共産主義が失敗に終わるのは明らかである。スターリンは実際に会って話した米国記者いわくとても聡明な男だったそうだが、そんなカリスマ指導者でも実際に共産主義を実現できたかと言われればそうではない。己の頭の中だけで理想を実現する方法を考えたポル・ポトは、カンボジアを地獄の底へ導いた。中国共産党の腐敗や拝金主義、口先だけの平和主義は言及するに値しない。

なぜそれでも理想を追い求めるのか

 これが分からない。理想とするものがある事、こうあったら良いのになという思想は分かる。しかし世の中には実現できる理想とそうでない理想がある。共産主義は物理学の世界で言えばさしずめ永久機関のようなもの。これまでの歴史、発見された法則から実現できないと分かり切っているものだ。それが今になって革新的な論理になる事はないし、時代遅れなのかと投げかけても誰が見ても時代遅れに違いないだけである。

世界平和、話し合いで解決の滑稽さ

 人間の欲望を人民の一人に至るまで完璧にコントロールすること、そんな事は不可能である。それは共産主義が実現不可能である事を意味すると同時に、彼らが言う平和や話し合いで解決と言った甘ったるい安全保障論も否定する。

 世界平和とは文字通り解するなら、世界から紛争が消えることだろう。しかし争いと無関係な人間などどこに居ると言うのか。共産主義が実現すれば、争いも無くなると思っているのだろうか。そういう甘い理想を掲げる人間も現実はあらゆる競争に参加しているというのに。

 紛争、戦争、あるいはごく局所的な武力行使の根源は人間の欲望である。領土が欲しい、資源が欲しい、宗教国家を樹立したい、異端を追い出したい、突き詰めていけばそれは人間およびそれが形成する群れの欲望に根ざしたもの。だからこそ戦争は無くならない。この世に人間が生まれてから、地球上で人間同士の争いが完全に絶えた瞬間などあっただろうか。

 逆に世界平和や共産主義を実現したければ、おそらくは人間から欲望を完全に無くしてしまうのがもっとも現実的な手段だろう。しかし、完全に欲望を無くした人間はもはや人間と言えるのだろうか。あるいは上位種に管理され、最低限動物並の欲望だけ保ちながら、誰もが平等に管理されて生きる社会。そんな社会に生きる人間は人間と言えるだろうか。

 安全保障問題を話し合いで解決も明らかに非現実的。それはまず相手が「話し合いが通じる相手」である事が大前提であって、それが通じない相手にはとことん通じない。どうせ通じないのが分かってて言っているのだろうが。話し合いをと軟弱な姿勢を見せている内に、力ずくで領土領海を侵略されて終わりなのは目に見えている。むしろそうさせる事が目的なのだろうとさえ思う。世界の根本は弱肉強食である。人間の社会、話し合いで解決の社会など、人間がお互いに損をしたくないために作っているだけの脆いシステムでしかない。安全保障、有事に関わる問題はそれが通じなくなる異常事態であり、そこに必要なのは世界の根本に根ざした具体的な対抗策、武力である。

 時に戦争に人道だの話し合いだのを持ち込むアホには辟易する。戦争、侵略、そういった人間社会における良心の範囲外にある世界では、人間は獣に戻る。獣として、生物としての人間の世界が戦争の世界であって、そこに人間らしい人間のルールなど通用しない。話し合いだの人道的かどうかなどクソ喰らえであって、重要なのはいかに敵を殺すか、いかに自分自身やそれが属する群れ(=国家)を守るかである。

大学では生協のPCを買うべきか否か

 書き散らし。

 まず最初に断っておくと、私は国内メーカーアンチなのでその辺もあってこういう記事を書いている。NEC富士通もスペックの割に高いし、最初から余計なソフトが山程インストールされているのが本当に嫌い。ウザい。中のパーツはどうせ中国製・米国製なのに。

保証面ではあり

 保証面では確かに生協PCもアリとは言えるかも知れない。何かあった時の交換など万が一の際のどうこうはまあ認めざるを得ない点はある。ただし、それほど故障はよく起こるものだろうか。普通に買える製品にだって保証はあるし、それで完全に差別化できるとは思えない。

重いのはナシ

 スペックは誰もが気にするだろうが、毎日持っていくなら絶対に気にするべきは重さ。スペックとの兼ね合いが悩ましいが、2kgもあれば絶対重くて苦になる。ゲーミングノートでないとそんなに重さはないが、逆にノートでもスペックばかり追求してしまうと2kgは超えがち。いかにも軽そうな13インチのMacBookAirだって約1.3kgあるのだから、見た目が軽そうでも油断は禁物。たかが2kgといえど、2kgのペットボトル飲料を持ち歩く事を考えると、いかにそれが苦か容易に想像できるだろう。

メモリは8GBが最低ライン

 Windows10を使う場合、メモリ8GBは「最低」ライン。要求スペックでは4GBが最低ラインだが、実際に使用しているとメモリ使用量4GBは普通に超える。超えた分はHDDやSSDといったストレージを代わりに使って凌ぐが、処理速度は落ちる。Windows10だけ動かすなら4GBで足りるかも知れないが、そんな人はなかなか居ないだろう。

 あえて「最低」ラインと書いたのはPhotoshopを使用していると8GBでもクラッシュした経験があるから。8GBでもちょっと重い作業をすると超えてしまった。それなりに重い作業をするのであれば、16GBが「安心」ラインと言える。

core i7で無くてもいい

 スペックにこだわる人間はついcore i7core i9を欲しがりがち。かつての私もそうだった。しかしノートPC用のCPUは、厳しい電力制限があるのでデスクトップPCのcore i7ほどはパワーが出る筈もなく、ただコア数が多い=それを活かせる作業に強い、程度の違いしかない。そしてマルチコアを活かせる作業は限られている。ソフト側がまず対応していなければ意味はない。

 なのでノートPCの場合はcore i5かそれ相当のCPUで十分。最低でもcore i3クラスは欲しいところ。Celeronはオススメしない。Atomは論外。core i3~i5辺りであれば必要十分といえるし、無駄に消費電力が高くないのでバッテリー持ちもまあまあ良い筈。本当に重い作業は出来るなら家でデスクトップを使って処理した方が早い。

グラボはありかナシか

 ゲームもやるつもりなら欲しいだろうが、そうなって来ると大体重くなる。持ち運びが苦になるような重さになってくる。DellのAlienware 15インチで薄型のものでも2.27kgとやはり2kgは超えて来る。グラボは当然発熱するので、狭くて薄いノートPCの内部からいかにして熱を逃がすかが重要になってくる。そのためグラボ本体+冷却機構を合わせて重くならざるを得ない。

 今のCPUは内蔵グラフィックがそこそこ使えるので、学問で使うノートPCには大抵は必要ない(グラフィックが密接に関係する場合は別かも知れないが)。実際に使用するソフトが分かっている、あるいは目星がつくなら、ソフトの要求スペックを確認するのが一番良い。3D CADならFusion360、画像編集ならPhotoshopCCやIllustratorCCあたりだろうか。Photoshopは私が使っている限り、グラボ無しでも普通に使えている。どちらかと言えばメモリの量が大事。

家電量販店で買っても良いか

 正直あまりオススメしない。BTO, Build To Orderでネットで買った方が安い。ただ保証面でいつでも持ち込みやすいという面はある。~年保証なんかをつける前提ではあるが、それはBTOでも同じ。最近はとんでもなくボッタクリみたいな価格の製品も少ないし、海外のコスパの良いメーカーの製品も置いてあるので、一概に否定はしない。ただセットで余計なものを売りつけられないように注意だけしたい。

 蛇足だが私の祖父は、NECのデスクトップを買うと同時に、明らかに使わないあらゆる周辺機器を売りつけられたことがあった。パソコンも中身が余計なソフト(大体が体験版)だらけで、邪魔なサービスやらソフトやらの整理をしないと動作が重かった。だから私は国内メーカーが嫌いになった。その辺りをよく注意して見ておきたい。

具体的にどこのメーカーがオススメか

 家電量販店で売ってる前提で言うと順に

 あたりか。プログラミング系はMac一択とも聞く。一生大事に使うものでもなし、この辺りのメーカーが一番コスパ良いのではないか。ASUS自作PCのパーツでも結構有名。DELLは大きい家電量販店でのみ店頭販売をしている。Inspironは初期不良が多いとも聞くので2番目。Acerはモニターの方が有名かも知れない。

眠れない夜には英単語

今週のお題「眠れないときにすること」

 A~Zまでそれで始まる英単語を順番に思い浮かべていく。まず書いてしまうと単純にこれだけ。思い浮かべるのは別に名詞でも動詞でもいいし、レベル的には中学生英語で十分。"A"pple、"B"oat、"C"ar、みたいな感じで。英語が苦手な人ほど早く眠れるかも?知れない。余裕があれば昨日思い浮かべた単語と同じものはダメ、みたいな追加ルールもあり。「昨日はAppleだったから今日のAは"A"ir」みたいな。別に英語でなくとも、日本語の50音でも良いしフランス語でもラテン語でも良い。ただ日本語はやはり思考が回るので、忘れていた事あるいは忘れたかった事を不意に思い出してしまうかも知れない。

 寝る前の話ではあるが、YouTubeで癒やし系音楽を聴いてから寝るのも悪くない。聴きながらではなく聴いてから寝る。ASMRなんかを聴きながら寝る人もいるらしいが、広告ブロッカーを入れないと「楽天カァアドマァアアアン!」で耳を破壊されそうで怖い。私は寝ながら音楽を聴いていると、途中でやっぱうるせえ!となるので寝ながらは聴かない派。イヤホン難聴も心配だし。

余談

 「何かをしたかったがそれが何なのか忘れた」、「さっきまで頭の片隅にあったのにそれが何だったか忘れた」という時に最終手段として使うのが、日本語で50音ずつ、ぼーっとしながら何かを思い浮かべること。無理な時は無理だが、私は大抵それでどこかが引っ掛かって何を忘れたか思い出せる。ぼーっとしている状態は脳がランダムアクセス状態になるらしいので、そこで総当りで検索すればヒットする確率が高い、そんな感じ。逆に特定の物事だけ集中して思い出そうとすると、忘れた箇所以外の所しか見ないので思い出せる確率が低くなる。独自論ではあるが誰かの役に立てばうれしい。

 良く言われるブルーライトは正直あんまり関係ないと思っている。確かにブルーライトは覚醒を促す効果があるが、それは純粋な照明で比較した場合。要は青い蛍光灯と赤い蛍光灯をつけた教室で、どちらで勉強した生徒が成績が良かったか、みたいなものであって、PCやスマホのディスプレイでは光の色など気にする意味がない。単純にそういったモニターを観る時間を減らす事が重要だろう。

 ブルーライトが眼の疲れを生むとされているのは、青い光が赤い光よりもエネルギーが大きいからだろうか。周波数で見ればそれは事実なのだが、正直可視光の域でそんなに違いがあるとは思えない。そもそも人間の眼で言えば、水晶体を最も通り抜けやすいのは緑の光。網膜には赤を感じる細胞が一番多く、青い光を感じる細胞は一番少ない。ブルーライトだけ悪者にしたって意味がない。